【GNH】ゼロ年代終わりのブータンを旅行してきた。【その9】
2010年 01月 31日
朝。
窓から見るティンプーは雪化粧で白くなっていた。

この日はプナカへ往復し、ゾンを見学する予定だったのだが
3年ぶりだかの積雪で、現地の人たちも浮き足立っている様子だった。
プナカはティンプーから車で3時間程度。
ブータンでは1955年まで
首都が季節ごとに動くというワンダーなシステムが敷かれていて
プナカは暖かいので冬の首都だったのだとか。
ホテルの朝食を腹に詰め込み、自分たちはバスに詰め込まれる。


プナカは渓谷にあり、ティンプーよりも1000m以上低いところにある。
が、峠を超えるためにバスはどんどん山を登っていく。
雪は深くなるばかり。


ドチュ・ラ(ドチュ峠)は標高3150m。
チョルテンと呼ばれる仏塔の小さい奴が108柱(単位合ってるかな……)建っている。
真っ白い雪の中に極彩色の塔が林立しているのはなかなか壮観で、
ティンプーからプナカに向かうドライバーがSA代わりに休み、
タバコやドゥマを喫っている。
で、どうやらこのドチュ・ラからプナカへ向かう道のどこかで事故があり、
これいじょう進めない、とKinleyが言い出した。
ドライバー同士は携帯電話でやりとりしながら現地の様子うかがっている。
事故処理の車両や人を満載したバスがのろのろと行ったり来たりしている。






1時間くらいドチュ・ラでぐうたらしていただろうか。
とりあえず道は大渋滞でにっちもさっちもいかないので、プナカ行きは断念。
もし渋滞をクリアしてプナカに到達しても、
帰りに同じような状況に遭遇したらティンプーに帰れないという判断だった。
というわけで、ドチュ・ラから少し歩いたところにあるカフェテリアまで
渋滞の車をかき分けて進む。



ここで驚くべきは、渋滞にもかかわらずみんなニコニコしていることである。
イライラしてクラクションを鳴らしたり、ムスっとした顔をしている人はいなかった。
とにかくみんな携帯片手にニコニコ。
急がないのか、暇なのか、とにかくブータン人は怒らないのだ。ハピネスなのだ。


ここで昼飯となったのだが、どうもふつうのレストラン食を出してくるようだったので
ここでわがまま日本人ツアー客の本領を発揮し、
「プナカに行けなくなったし、暇だから料理をブータンの本場モノにしてくれ」と
むちゃくちゃなオーダーを出す。
みんな「え、これ喰えるんですか?」みたいな本気のブータン料理を食いたかったのだ。
で、厨房でイチから料理が始まったのだった。
果てしなく待ち、本を読み、人形劇をやり、ラッパを吹き、手当り次第にかぶり物をかぶり、
手紙を書き、たわいもない話をし、外に出てタバコをふかし、ガイドに家族自慢をされ、
腹がグーグー言い出した頃に、料理はやってきた。

このメシは本当にうまかった。そして辛くて、さらにうまかった。
どれも唐辛子がじゃんじゃか入っていて、
パクッと口に入れるとトマトのような味がブワーっと広がってから
辛さがドワーっとひろがって、さらに肉やら何やらのうまみがジュワーっと。
ビールがバンバン飲めて、おかわりもバンバンしまくった。
本当に、おいしかった。本当に。

メシを喰い終わった頃には雪もほとんど止み、渋滞はなくなっていた。
しかしまあ、そのままみんなでティンプーへと引き返す訳で
つまり大晦日何をしていたかと言えば、雪で遊んでメシを喰っただけだった。
ハピネス。


いきなりだが、ガイドのKinleyは27歳で、ナムゲル・ワンチュク国王は29歳。
ときどき国王はKinleyに電話してきて、「バスケしようぜ」と言うらしい。
どんだけだ。なんだそれ。
そんで、街のバスケコートでバスケをたしなむらしい。
それはまあいいや。
ティンプーの街で買い物したい組とホテルで寝たい組に分かれ、
僕はホテルのロビーで紅茶をがぶ飲みしながら無限インターネットに興じた。
日本ではガキの使いが始まろうとしていて、紅白にはAKB48が1000人くらい出てきたり、
EXILEが10000人くらい出てきたり、小林幸子がサイコガンダムになったりしていた。
部屋に戻ると、インドのレコード大賞みたいな番組が始まっていて
まがりなりにも大晦日感のようなものを感じたけど、
バルコニーから眺めるティンプーは昨日と何も変わらず、
とにかく平和な時間がゆるゆると流れ、黄昏の川べりを冷気が支配していた。



つづく
by kala-pattar
| 2010-01-31 13:14
| 行ってきた