【GNH】ゼロ年代終わりのブータンを旅行してきた。【その12】
2010年 01月 31日
ブータン最後の夜。元旦の夜。
ティンプー市街を歩きながら、買い物にチャレンジ。

▲お土産という概念がほぼ皆無なブータン。おそらくインド製と思われるガラクタが法外な値段で売られている。
マニを買ったり、新聞を買ったり、お茶を買ったり、レッドブルを買ったり。
ファンキーガールであるところのぐっさんが異常な交渉力を発揮し、
土産物屋の親父に車を出してもらってホテルまで送迎させたり
アホみたいな距離(歩けるだろ!って距離)を爆安タクシーで移動したり
おみやげをバカスカ値切ったり……。
ああいう交渉英語ってのはネイティブゆずりじゃないと身に付かないだろうから
自分もどうにかしたいもんだ、と思った。

▲ブータン最後の晩餐。あいかわらずホテルメシはふつう。

▲辛さが足りない!とか調子に乗って、無理矢理唐辛子をオーダーしたらこれが破滅的辛さ。死ねる。

▲レッドブルは1本50円。無炭酸で超甘い。酒を割るには味も量も微妙。日本人で良かった。
夜中にホテルを抜けて、歩く。
凛冽な空気がたまらなくキモチよくて、いくらでも歩ける感じ。

▲星は東京のほうがよっぽど見える。ブータンは空が狭くて、いつも煙ってる印象。

▲夜のメモリアルチョルテンにも行ってみた。閉まっててグルグルできなかったけど、きれい。
地図に描いてある橋が気になってて、それを渡りたくてウロウロしたんだけど、
すぐそこに橋があるのにどうしてもそのたもとに道がつながってない。
結局2時間くらいウロウロして、橋にはたどり着けなかった。さながらエレクトロワールドだった。
きっと、一緒に歩いてたぐっさんと、橋のマボロシを見てたんだろう。
寒くて、奇麗で、誰もいなくて、ナトリウムランプがこうこうと道を照らすティンプーの夜は
異国情緒とも郷愁ともつかないなんとなくセンチメンタルな気分で、
どれがどう自分の心に影響しているのかは切り分けてとらえられず
ただただ濃い酒を胸の中に流し込まれているかのような陶酔を味わっていた。

1/2の朝。
慌ただしくベッドを片付け、
パッキングを済ませ、三脚をバラしてザックに押し込む。
もう規格外荷物にされるのはごめんだ。
膨らみまくったバックパックをバスに乗せて、ホテルを後にする。

▲もはや見慣れてしまった光景が後ろに飛び退って行く。

▲あー、ブータン去るのか。素直に寂しいよ。寂しい。
パロ国際空港は快晴。微風。

▲一週間僕らを運んでくれたドライバー、Laughing' BUDDHA(右)。シャイな奴だった。

▲KB130、バグドグラ経由バンコク行きの出発が迫る。
Kinleyはやたらと淡白な別れ方で、僕らの目の前から消えた。
「いればいるほど、寂しくなるだろ?」
最後までキザな優男であった。

▲A5-RGGのレジが入ったA319。行きと同じ機材に乗り込む。
パロ・ゾンが滑走路の彼方に見える。
山をかすめるように機体はふわりと宙に浮き、
僕らはブータンを後にした。
席はちゃんと右側をとった。
通路側の席だったけど、望遠レンズも用意した。
飛ぶこと15分、目の前にヒマラヤ山脈が広がる。
足下から延々と山塊が連なり、そのまま奥に行けば行くほど高くなり、
あげくの果てに8000mの壁になっている。
どこにも人が住めるような余地はないし、おそらく人が踏み入る道もなかった。
なにもかもを拒むような黒い凹凸が、まるで海のようにただただ広がっていた。
カンチェンジュンガが、エベレストが、奥の奥にそびえていた。
言葉で説明できない感情がドッと押し寄せてきて、ただただ圧倒された。
何も考えることなんか出来ず、僕は目から涙のようなものを出していた。

▲ひたすら遠近法を無視するヒマラヤ山脈。スケール感は狂い、時間や距離がぶっ壊れているのを感じる。
インド、バグドグラ空港ではまた給油が行われた。
機外から、
「パリパリパリ……ザバーッ!!!」
という轟音が聴こえて、窓の外にちらりと見えるのはスクランブル発進をかけるMiG-21だった。
2機ずつ、3回に分けて上がって行く。
アフターバーナーのオレンジが目に焼き付く。
こちらの給油が終わった頃、ゴワゴワとエンジン音を轟かせながら帰投したフィッシュベッドは
ドラッグシュートをパッと開いて格納庫の方へ戻って行った。
こんな経験、たぶん2度としないだろう。
そしてバグドグラから数時間のフライト。
茶色くて寒くて高くて乾いてるブータンも恋しかったが、
水田と緑が広がってて暑くて低くて湿ったタイもまた恋しかった。
眼下に広がる豊かな水分。「タイはモイスチャーカントリーだ!」とつぶやいてしまった。

▲夕暮れのスワンナプームは夏休みの終わりみたいな色だった。
つづく
ティンプー市街を歩きながら、買い物にチャレンジ。

マニを買ったり、新聞を買ったり、お茶を買ったり、レッドブルを買ったり。
ファンキーガールであるところのぐっさんが異常な交渉力を発揮し、
土産物屋の親父に車を出してもらってホテルまで送迎させたり
アホみたいな距離(歩けるだろ!って距離)を爆安タクシーで移動したり
おみやげをバカスカ値切ったり……。
ああいう交渉英語ってのはネイティブゆずりじゃないと身に付かないだろうから
自分もどうにかしたいもんだ、と思った。



夜中にホテルを抜けて、歩く。
凛冽な空気がたまらなくキモチよくて、いくらでも歩ける感じ。


地図に描いてある橋が気になってて、それを渡りたくてウロウロしたんだけど、
すぐそこに橋があるのにどうしてもそのたもとに道がつながってない。
結局2時間くらいウロウロして、橋にはたどり着けなかった。さながらエレクトロワールドだった。
きっと、一緒に歩いてたぐっさんと、橋のマボロシを見てたんだろう。
寒くて、奇麗で、誰もいなくて、ナトリウムランプがこうこうと道を照らすティンプーの夜は
異国情緒とも郷愁ともつかないなんとなくセンチメンタルな気分で、
どれがどう自分の心に影響しているのかは切り分けてとらえられず
ただただ濃い酒を胸の中に流し込まれているかのような陶酔を味わっていた。

1/2の朝。
慌ただしくベッドを片付け、
パッキングを済ませ、三脚をバラしてザックに押し込む。
もう規格外荷物にされるのはごめんだ。
膨らみまくったバックパックをバスに乗せて、ホテルを後にする。


パロ国際空港は快晴。微風。


Kinleyはやたらと淡白な別れ方で、僕らの目の前から消えた。
「いればいるほど、寂しくなるだろ?」
最後までキザな優男であった。

パロ・ゾンが滑走路の彼方に見える。
山をかすめるように機体はふわりと宙に浮き、
僕らはブータンを後にした。
席はちゃんと右側をとった。
通路側の席だったけど、望遠レンズも用意した。
飛ぶこと15分、目の前にヒマラヤ山脈が広がる。
足下から延々と山塊が連なり、そのまま奥に行けば行くほど高くなり、
あげくの果てに8000mの壁になっている。
どこにも人が住めるような余地はないし、おそらく人が踏み入る道もなかった。
なにもかもを拒むような黒い凹凸が、まるで海のようにただただ広がっていた。
カンチェンジュンガが、エベレストが、奥の奥にそびえていた。
言葉で説明できない感情がドッと押し寄せてきて、ただただ圧倒された。
何も考えることなんか出来ず、僕は目から涙のようなものを出していた。

インド、バグドグラ空港ではまた給油が行われた。
機外から、
「パリパリパリ……ザバーッ!!!」
という轟音が聴こえて、窓の外にちらりと見えるのはスクランブル発進をかけるMiG-21だった。
2機ずつ、3回に分けて上がって行く。
アフターバーナーのオレンジが目に焼き付く。
こちらの給油が終わった頃、ゴワゴワとエンジン音を轟かせながら帰投したフィッシュベッドは
ドラッグシュートをパッと開いて格納庫の方へ戻って行った。
こんな経験、たぶん2度としないだろう。
そしてバグドグラから数時間のフライト。
茶色くて寒くて高くて乾いてるブータンも恋しかったが、
水田と緑が広がってて暑くて低くて湿ったタイもまた恋しかった。
眼下に広がる豊かな水分。「タイはモイスチャーカントリーだ!」とつぶやいてしまった。

つづく
by kala-pattar
| 2010-01-31 18:29
| 行ってきた