酩酊と昇降のミャンマー探訪【その7】
2012年 10月 31日
名前の分からない仏塔をいくつめぐっただろうか。
しかし、僕も阿難の名前くらいは知っていた。
それは僕が大学の美術史学科で仏教を学んだからであるが、彼はつまり釈迦の十大弟子の一人である。
アーナンダ寺院は阿南の名前を冠した寺院であり、パガン朝の三代、チャンスィッター王によって建てられたものだ。
ここはとても有名でとても大きく、たくさんの人でにぎわっていた。
▲アーナンダ寺院の尖塔はとても高く、美しい。
▲内部には東西南北に向いた4体の仏像が納められている
パガンに生きた人々は、どうも仏像を作るのがうまくなかったように思う。
いくつもの仏像をみたが、凛々しくもなければ可愛くもない、なんとも言えぬ表情の仏像ばかり。
しかし、それがまたどこか憎めないのも事実。
▲シンメトリーはどの寺院も微妙に崩壊していて、バッチリ左右対称な写真が撮れない。
▲どことなくイスラミックな雰囲気は、スリランカの影響だったりするのかしらどうかしら。
ひととおりアーナンダ寺院を見て回ると、庭に出て大きな木の下に作られたテラスで僕らは横になった。
そして隣の木に掲げられた垂れ幕を見て、少し笑った。
垂れ幕は地元の通信会社によるものだった。
そこには「無料のWi-Fiがこのお寺に寄進されています」と書かれていた。
この地では、Wi-Fiはサービスではなかった。ブッダに捧げる供物であった。
僕のiPhoneはヤンゴンを出てから一度もキャリアの電波を拾うことのないただの板と化していたが、
それは仏の力によってたちまち世界とつながる万能のデバイスへと変化した。
仏はアーナンダ寺院を訪れたちっぽけなこの日本人を、その瞬間だけインターネットという煩悩の塊にアクセスさせてくれるのだ。
ありがたく「admin」というpassを打ち込むと、手のひらの中のSafariが高速にページを読み込んでいく。
日本で3G回線に毒されていた僕は、この体験をとても不思議でありがたいもののように感じたのだった。
うまく伝えられている自信がないが、例えばそれは観音様が索をもって衆生を救うようなイメージと重なった。
ミャンマーの女学生たちが修学旅行か社会科見学か、僕らを見て嬌声をあげる。
柱の陰からチラチラと見たり、少し遠くをついてきたりしていたが、僕はスタスタと土産物屋を見て回った。
ふと振り返ったら、遠くで僕の後輩と先輩が女学生たちにつかまり、一緒に記念撮影をさせられていた。
僕はまた少し笑った。
▲ワゴン車はふたたび森の中を往く。
腹をすかせた僕たちはオールドバガンの森の一角にある食堂の集まった場所に出向き、そしてミャンマー飯を喰らった。
ビュッフェスタイルで、たくさんの皿にカレーや揚げ物や生野菜や炒め物が振舞われ、コメを主食にそれを貪った。
どれも概して旨く、混ぜれば不思議に変化する食事だったが、饐えた臭いのするスープと、発酵した茶の葉っぱは遠慮した。
デザートに出た太く大きなバナナは芋のような食感で、2軒となりから甘みと香りが漂ってくるような、そんな味だった。
▲牛。
▲牛の代わりとなるもの。
遅い昼飯を済ませた僕らは午前とは違う幾つかの仏塔をめぐり、後輩はロンジー(民族衣装)を買って、僕はレッドブルを啜った。
日差しは一向に衰える気配を見せなかったが、イラワジ川のほとりにある小さな塔を見に来たら、川面に夕日が反射していた。
▲笑いすぎて現地人に怒られるのではないかと不安になった。キモカワイイ。
突然「日本の方ですか」と話しかけられて、思わず振り向くと、そこにはタナカを顔に塗られた女の子が座っていた。
聞けば彼女は一人でミャンマーを訪れ、ひねもすイラワジ川を眺めているのだった。
明日はマンダレーまで船で移動し、数日をミャンマーで過ごしたあとはベトナムに飛ぶのだという。
写真を撮りませんか、と持ちかけられたので誰のカメラでどう撮るかとワチャワチャしていたら、
Mr.オッオともう一人のミャンマー人男性が寄ってきて、なんだかコンセプトのよくわからない集合写真が撮れた。
さようなら、と言って、僕たちはイラワジ川のほとりをあとにした。
▲イラワジ川は海から数百キロさかのぼったバガンでも広い川幅を保っている
「涅槃仏を見たい」
そう言ったのは僕だったかもしれないが、やっぱりレンガづくりではないパゴダに連れて行かれ、
テカテカの新品のように手入れされた美しくもなければ凛々しくもない、なんとも茫洋とした涅槃仏を見せられた。
もうわがまま言うのはやめよう。Mr.オッオも僕らの嗜好はちょっとずつわかってきているらしかった。
▲大味。
その日最後になるパゴダに向けて、Mr.オッオは車を走らせる。
「サンセットをそこで見る。とても有名な、サンセットの名所だ」と彼が言うが、どの仏塔だって登ればサンセットは見えるだろう。
▲日の入りまであと1時間もなくなったころ、影が長く伸びる。でも暑くて汗は止まらない。
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しかし、僕も阿難の名前くらいは知っていた。
それは僕が大学の美術史学科で仏教を学んだからであるが、彼はつまり釈迦の十大弟子の一人である。
アーナンダ寺院は阿南の名前を冠した寺院であり、パガン朝の三代、チャンスィッター王によって建てられたものだ。
ここはとても有名でとても大きく、たくさんの人でにぎわっていた。
パガンに生きた人々は、どうも仏像を作るのがうまくなかったように思う。
いくつもの仏像をみたが、凛々しくもなければ可愛くもない、なんとも言えぬ表情の仏像ばかり。
しかし、それがまたどこか憎めないのも事実。
ひととおりアーナンダ寺院を見て回ると、庭に出て大きな木の下に作られたテラスで僕らは横になった。
そして隣の木に掲げられた垂れ幕を見て、少し笑った。
垂れ幕は地元の通信会社によるものだった。
そこには「無料のWi-Fiがこのお寺に寄進されています」と書かれていた。
この地では、Wi-Fiはサービスではなかった。ブッダに捧げる供物であった。
僕のiPhoneはヤンゴンを出てから一度もキャリアの電波を拾うことのないただの板と化していたが、
それは仏の力によってたちまち世界とつながる万能のデバイスへと変化した。
仏はアーナンダ寺院を訪れたちっぽけなこの日本人を、その瞬間だけインターネットという煩悩の塊にアクセスさせてくれるのだ。
ありがたく「admin」というpassを打ち込むと、手のひらの中のSafariが高速にページを読み込んでいく。
日本で3G回線に毒されていた僕は、この体験をとても不思議でありがたいもののように感じたのだった。
うまく伝えられている自信がないが、例えばそれは観音様が索をもって衆生を救うようなイメージと重なった。
ミャンマーの女学生たちが修学旅行か社会科見学か、僕らを見て嬌声をあげる。
柱の陰からチラチラと見たり、少し遠くをついてきたりしていたが、僕はスタスタと土産物屋を見て回った。
ふと振り返ったら、遠くで僕の後輩と先輩が女学生たちにつかまり、一緒に記念撮影をさせられていた。
僕はまた少し笑った。
腹をすかせた僕たちはオールドバガンの森の一角にある食堂の集まった場所に出向き、そしてミャンマー飯を喰らった。
ビュッフェスタイルで、たくさんの皿にカレーや揚げ物や生野菜や炒め物が振舞われ、コメを主食にそれを貪った。
どれも概して旨く、混ぜれば不思議に変化する食事だったが、饐えた臭いのするスープと、発酵した茶の葉っぱは遠慮した。
デザートに出た太く大きなバナナは芋のような食感で、2軒となりから甘みと香りが漂ってくるような、そんな味だった。
遅い昼飯を済ませた僕らは午前とは違う幾つかの仏塔をめぐり、後輩はロンジー(民族衣装)を買って、僕はレッドブルを啜った。
日差しは一向に衰える気配を見せなかったが、イラワジ川のほとりにある小さな塔を見に来たら、川面に夕日が反射していた。
突然「日本の方ですか」と話しかけられて、思わず振り向くと、そこにはタナカを顔に塗られた女の子が座っていた。
聞けば彼女は一人でミャンマーを訪れ、ひねもすイラワジ川を眺めているのだった。
明日はマンダレーまで船で移動し、数日をミャンマーで過ごしたあとはベトナムに飛ぶのだという。
写真を撮りませんか、と持ちかけられたので誰のカメラでどう撮るかとワチャワチャしていたら、
Mr.オッオともう一人のミャンマー人男性が寄ってきて、なんだかコンセプトのよくわからない集合写真が撮れた。
さようなら、と言って、僕たちはイラワジ川のほとりをあとにした。
「涅槃仏を見たい」
そう言ったのは僕だったかもしれないが、やっぱりレンガづくりではないパゴダに連れて行かれ、
テカテカの新品のように手入れされた美しくもなければ凛々しくもない、なんとも茫洋とした涅槃仏を見せられた。
もうわがまま言うのはやめよう。Mr.オッオも僕らの嗜好はちょっとずつわかってきているらしかった。
その日最後になるパゴダに向けて、Mr.オッオは車を走らせる。
「サンセットをそこで見る。とても有名な、サンセットの名所だ」と彼が言うが、どの仏塔だって登ればサンセットは見えるだろう。
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by kala-pattar
| 2012-10-31 02:30
| 行ってきた