【美術館】今週末は嫁を質に入れてでもアンドレアス・グルスキー展に行け
2013年 09月 04日
※書いてから一晩たって、「確かに品がないなー」と思ったのでタイトル変えました
国立新美術館で開催されている写真展、『アンドレアス・グルスキー展』に行って来た。
東京では9月16日までなので、1500円握りしめてなるべく早く訪れるべし。
▲国立新美術館はいつ見ても格好良い。
写真というのはカメラで撮影するものであると思っている人。
写真というのは文字通り真実を写す手段であると思っている人。
写真というのは心打たれた情景を記録するための存在であると思っている人。
写真というのはリアルなこの世の鏡であると思っている人。
写真というのはイメージであると思っている人。
上記はすべて間違いである。
写真は、作れる。しかも、「完璧」な写真を。
グルスキーはそれを提示したアーティストである。
そも、カメラ(=写真機)というものはまことに原始的な機械である。
カメラの前方から降り注ぐ光をガラスの玉で屈折させ、
絞りという乱暴な穴の拡大縮小装置を通過させ、
シャッターというアホみたいに原始的なゲートを開閉することでその流量を制限し、
運良く通り抜けた光線をフイルムやセンサーという平面にぶち当て、
そこで人間が調合した化学薬品や人間が設計したセンサーという極めて不完全なものにより
化学変化の結果や電気信号として像を捉えようとする、馬鹿げたチャレンジの成れの果てである。
ぶっちゃけ、カメラというものが考案されてからこっち、その原理原則などほぼ不変である。
ガラスの玉(=レンズ)は材質やその表面のカーブによって光の屈折の仕方を変化させるものの
理想的なレンズなどというものは存在し得ないので、妥協の塊である。
拡大に拡大を重ねれば、レンズ表面の曲面などガコガコと歪んでいるし、
点で飛び込んできた光も硝子を通り抜ける過程で拡散し、反射し、流れたり滲んだり減殺されたりする。
シャッターというアホのような幕は移動に時間もかかるし、
これを開け閉めする時間で降り注ぐ光の量を決めるのが目的であるにもかかわらず
開けっ放しにすれば動いている自動車はブレてしまうし、空を往く星は糸を引く。
さっさと閉めれば流れて迸る水の流れも瞬間に切り取られ、単なる静止したカタマリに成り代わる。
絞りという光の通路の大小を決める装置は一見革命的な機構に見えるが
通路の大小でピントの合う範囲が狭くなったり広くなったりするという決定的な欠陥を持つ。
光が到達するフイルムやセンサーはあくまで人間の視覚に沿うべく作られたニセの網膜であり、
(千差万別ながら)人間の網膜の性能(=解像力や感度、色の再現性など)には及ぶべくもない。
つまり、カメラというのは妥協の産物であり、その結果得られる写真は妥協の産物の排泄物のようなものなのだ。
そのバランスをどこで均衡させたかが「カメラ」という機械であり、「写真」という成果物である。
我々一般人の撮影する「写真」というのは、ありとあらゆるトレードオフのパラメータのなかで
仕方なく決定された、「自分の見たままとは異なる像」の記録にすぎないのだ。
▲たとえばこんなふうに見える壁があったとしよう。
上に示したような整然としたパターンをカメラで撮影したら、
まず壁で反射した光はレンズを通る過程で歪み、にじみ、流れ、
ミクロな時間でブレを起こし、ピントが全体に合うはずもなく、
画面のそこかしこで遠近に起因するパターンの大小の差異を見せ、
結果的に「俺が整然としていると感じたのとは違う壁」が写真に記録される。
(写真は筆者が「そういうふうに見えるように」、死ぬほど加工して完成したもの。)
単なる光学的な精密機械として評価したとき、「眼」は「カメラ」に劣る。
しかし、人間の脳というのはその乱暴な装置(=眼)から得られた情報を、想像もできないような処理によって合成している。
我々の視覚は隅々まで澄明で、隅々までピントが合い、どこまでも広く、どこまでも精緻な像を(ときには時間を止めたり圧縮したりして)認識する。
(たとえばそれは、『ウォーリーをさがせ!』の絵のようなイメージと言い換えることができる。)
光学性能を超えた脳内における画像処理。
それをカメラというくそったれな機械で得た「写真」でエミュレートするにはどうすればいいか?
グルスキーの作品とはまさに、そうした疑問への回答であり、実験であり、神に対する挑戦である。
▲『スーパーカミオカンデ』の看板を撮ると自前のカメラがいかに歪みまくった像を吐いているのか痛感する。
グルスキーが一つの作品のために何枚の写真を撮影し、それをどうやって合成しているのかは分からない。
しかし、水平なものが水平に、垂直なものが垂直に、微塵の歪みも見せずに写っている。
隅々まで澄明で、隅々までピントが合い、どこまでも広く、どこまでも精緻な、
色彩豊かな、ディテールフルな、シャープな、騒々しい、圧倒的な画像が、そこに存在する。
こんな写真はどうやったって撮れない。同じ場所に、同じ機材を持って、同じ条件で撮影したとしても。
しかも、高さ数メートル、幅数メートルのプリントで、だ。
(そんなインクジェットプリンターがこの世に存在することだけでも充分アートだと思う。
というよりも……「ひたすら大きい物」を作るというのがどれだけ大変なのか、
この個展に来ている人の殆どが理解していないように見受けられるのがもったいない)
カメラを少しでもいじったことのある人ならば、その恐ろしさを理解できるかもしれない。
しかし、おそらく世の中のほとんどの人が理解できないだろう。
なぜなら、グルスキーの作品は「およそ人間が視覚だと思っているもの」を完璧にエミュレートするため、
恐ろしいまでに合成され、加工され、アラを潰した「完璧なる視覚情報」だからだ。
展示されている作品は、パッと見ただけではただの写真にすぎない。
が、注意深く見れば、グルスキーがどれだけの時間と労力を費やしてこの恐ろしい所業に挑んだかがわかるだろう。
焦点距離に起因する撮影距離の限界も無視して、
被写界深度や色収差や歪曲や像の流れや色彩/明暗の情報の欠落といった
カメラというものが宿命的に持つ決定的欠陥をすべて取り除き
「俺にはこう見えたんだからこういうふうに像として存在してほしい」という、完璧な写真。
これはもう、写真じゃなくて、祈りに近い、果てしなくダルくてめんどくさい思考と作業の結果だ。
主題やテーマや文脈や想いはいくらでも後付けで評論家が書き連ねることができるだろうけど
そんなことは一切問題じゃない。
ただただ巨大で、どこまでも完璧な視覚のエミュレーションがそこに存在している。
それだけで僕たちは圧倒される資格があるし、それだけで充分だと僕は思う。
まだ見ていない人、見ないと一生後悔します。
もし時間があれば、必ず観に行ってください。
これは、警告みたいなもんです。マジで。
そうそう、タイトルの「嫁を質に入れて」ってところは、
「彼女をふってでも」とか「メシを抜いてでも」とか、なんでも代入していいと思います。
つまり、少なくとも金を借りたりちょっとした約束をブッチしたりする価値はあると思います。
▲「地球で一番意味のない図録が買える」という意味でも、稀有です。
>ANDREAS GURSKY | アンドレアス・グルスキー展
会期/2013年7月3日〈水〉→9月16日〈月・祝〉
休館日/毎週火曜日
会場/国立新美術館 企画展示室1E
開館時間/10:00-18:00 金曜日は20:00まで
※入場は閉館の30分前まで
主催/国立新美術館、読売新聞社、TBS、TOKYO FM
(大阪展は2014年2月1日〈土〉→5月11日〈日〉、国立国際美術館にて開催)
国立新美術館で開催されている写真展、『アンドレアス・グルスキー展』に行って来た。
東京では9月16日までなので、1500円握りしめてなるべく早く訪れるべし。
写真というのはカメラで撮影するものであると思っている人。
写真というのは文字通り真実を写す手段であると思っている人。
写真というのは心打たれた情景を記録するための存在であると思っている人。
写真というのはリアルなこの世の鏡であると思っている人。
写真というのはイメージであると思っている人。
上記はすべて間違いである。
写真は、作れる。しかも、「完璧」な写真を。
グルスキーはそれを提示したアーティストである。
そも、カメラ(=写真機)というものはまことに原始的な機械である。
カメラの前方から降り注ぐ光をガラスの玉で屈折させ、
絞りという乱暴な穴の拡大縮小装置を通過させ、
シャッターというアホみたいに原始的なゲートを開閉することでその流量を制限し、
運良く通り抜けた光線をフイルムやセンサーという平面にぶち当て、
そこで人間が調合した化学薬品や人間が設計したセンサーという極めて不完全なものにより
化学変化の結果や電気信号として像を捉えようとする、馬鹿げたチャレンジの成れの果てである。
ぶっちゃけ、カメラというものが考案されてからこっち、その原理原則などほぼ不変である。
ガラスの玉(=レンズ)は材質やその表面のカーブによって光の屈折の仕方を変化させるものの
理想的なレンズなどというものは存在し得ないので、妥協の塊である。
拡大に拡大を重ねれば、レンズ表面の曲面などガコガコと歪んでいるし、
点で飛び込んできた光も硝子を通り抜ける過程で拡散し、反射し、流れたり滲んだり減殺されたりする。
シャッターというアホのような幕は移動に時間もかかるし、
これを開け閉めする時間で降り注ぐ光の量を決めるのが目的であるにもかかわらず
開けっ放しにすれば動いている自動車はブレてしまうし、空を往く星は糸を引く。
さっさと閉めれば流れて迸る水の流れも瞬間に切り取られ、単なる静止したカタマリに成り代わる。
絞りという光の通路の大小を決める装置は一見革命的な機構に見えるが
通路の大小でピントの合う範囲が狭くなったり広くなったりするという決定的な欠陥を持つ。
光が到達するフイルムやセンサーはあくまで人間の視覚に沿うべく作られたニセの網膜であり、
(千差万別ながら)人間の網膜の性能(=解像力や感度、色の再現性など)には及ぶべくもない。
つまり、カメラというのは妥協の産物であり、その結果得られる写真は妥協の産物の排泄物のようなものなのだ。
そのバランスをどこで均衡させたかが「カメラ」という機械であり、「写真」という成果物である。
我々一般人の撮影する「写真」というのは、ありとあらゆるトレードオフのパラメータのなかで
仕方なく決定された、「自分の見たままとは異なる像」の記録にすぎないのだ。
上に示したような整然としたパターンをカメラで撮影したら、
まず壁で反射した光はレンズを通る過程で歪み、にじみ、流れ、
ミクロな時間でブレを起こし、ピントが全体に合うはずもなく、
画面のそこかしこで遠近に起因するパターンの大小の差異を見せ、
結果的に「俺が整然としていると感じたのとは違う壁」が写真に記録される。
(写真は筆者が「そういうふうに見えるように」、死ぬほど加工して完成したもの。)
単なる光学的な精密機械として評価したとき、「眼」は「カメラ」に劣る。
しかし、人間の脳というのはその乱暴な装置(=眼)から得られた情報を、想像もできないような処理によって合成している。
我々の視覚は隅々まで澄明で、隅々までピントが合い、どこまでも広く、どこまでも精緻な像を(ときには時間を止めたり圧縮したりして)認識する。
(たとえばそれは、『ウォーリーをさがせ!』の絵のようなイメージと言い換えることができる。)
光学性能を超えた脳内における画像処理。
それをカメラというくそったれな機械で得た「写真」でエミュレートするにはどうすればいいか?
グルスキーの作品とはまさに、そうした疑問への回答であり、実験であり、神に対する挑戦である。
グルスキーが一つの作品のために何枚の写真を撮影し、それをどうやって合成しているのかは分からない。
しかし、水平なものが水平に、垂直なものが垂直に、微塵の歪みも見せずに写っている。
隅々まで澄明で、隅々までピントが合い、どこまでも広く、どこまでも精緻な、
色彩豊かな、ディテールフルな、シャープな、騒々しい、圧倒的な画像が、そこに存在する。
こんな写真はどうやったって撮れない。同じ場所に、同じ機材を持って、同じ条件で撮影したとしても。
しかも、高さ数メートル、幅数メートルのプリントで、だ。
(そんなインクジェットプリンターがこの世に存在することだけでも充分アートだと思う。
というよりも……「ひたすら大きい物」を作るというのがどれだけ大変なのか、
この個展に来ている人の殆どが理解していないように見受けられるのがもったいない)
カメラを少しでもいじったことのある人ならば、その恐ろしさを理解できるかもしれない。
しかし、おそらく世の中のほとんどの人が理解できないだろう。
なぜなら、グルスキーの作品は「およそ人間が視覚だと思っているもの」を完璧にエミュレートするため、
恐ろしいまでに合成され、加工され、アラを潰した「完璧なる視覚情報」だからだ。
展示されている作品は、パッと見ただけではただの写真にすぎない。
が、注意深く見れば、グルスキーがどれだけの時間と労力を費やしてこの恐ろしい所業に挑んだかがわかるだろう。
焦点距離に起因する撮影距離の限界も無視して、
被写界深度や色収差や歪曲や像の流れや色彩/明暗の情報の欠落といった
カメラというものが宿命的に持つ決定的欠陥をすべて取り除き
「俺にはこう見えたんだからこういうふうに像として存在してほしい」という、完璧な写真。
これはもう、写真じゃなくて、祈りに近い、果てしなくダルくてめんどくさい思考と作業の結果だ。
主題やテーマや文脈や想いはいくらでも後付けで評論家が書き連ねることができるだろうけど
そんなことは一切問題じゃない。
ただただ巨大で、どこまでも完璧な視覚のエミュレーションがそこに存在している。
それだけで僕たちは圧倒される資格があるし、それだけで充分だと僕は思う。
まだ見ていない人、見ないと一生後悔します。
もし時間があれば、必ず観に行ってください。
これは、警告みたいなもんです。マジで。
そうそう、タイトルの「嫁を質に入れて」ってところは、
「彼女をふってでも」とか「メシを抜いてでも」とか、なんでも代入していいと思います。
つまり、少なくとも金を借りたりちょっとした約束をブッチしたりする価値はあると思います。
>ANDREAS GURSKY | アンドレアス・グルスキー展
会期/2013年7月3日〈水〉→9月16日〈月・祝〉
休館日/毎週火曜日
会場/国立新美術館 企画展示室1E
開館時間/10:00-18:00 金曜日は20:00まで
※入場は閉館の30分前まで
主催/国立新美術館、読売新聞社、TBS、TOKYO FM
(大阪展は2014年2月1日〈土〉→5月11日〈日〉、国立国際美術館にて開催)
by kala-pattar
| 2013-09-04 04:31
| 美術館・博物館