【超音速漫遊記 その3】ハイレート・クライム
2014年 01月 18日
最盛期のアルゼンチンには総延長15万kmもの鉄道が敷かれていたという。
しかし、そのほとんどが現在では廃線となっており、ブエノスアイレスの巨大で壮麗なターミナルからは
いくつかの近郊線が伸びるばかりである。
アルゼンチンに限らず、南米の鉄道事情というのはかなり悪く、
長距離の移動手段はバスと飛行機にその殆どを頼らざるを得ない。
ブエノスアイレスから走り続けるバスはパンパのなかを一直線にに伸びるハイウェイを飛ばしていた。
そこに寄り添うように敷かれたレールはところどころ埋まり、小川に架かった橋はことごとく崩落していた。
人はどこにでも住んでいるし、どこにも住んでいないようだった。
あまりに広大な枯草色の大地と牛。遠く望む奇妙な色をした山々。

そんな呑気な景色を眺めている場合ではなかった。
エアコンの吹き出し口から冷気の奔流が身体を直撃し、
吹き出し口を閉じれば行き場を失った冷気がスピーカーのダクトから先ほどと同じ勢いで吐出された。
1800kmの旅程を踏破しようというバスの中は寒く、乾燥していて、なおかつ決して停車しなかった。
粗末な弁当と菓子が時折車掌の手によって配られ、水と甘ったるいコーヒーを飲む以外なかった。
昼前に走りだしたバスは夜中に一度だけ停車し、ロードサイドの食堂の席に座らされた乗客の前に
巨大なフライドチキンが供されるとみんな黙ってそれを平らげ、またゾロゾロと車内へと戻った。
翌日の昼下がり、28時間の走行を終えたバスはラ・キアカという村に到着した。
簡単な入国審査があって、眼前の川がすなわち国境だった。
歩いて川を渡るとそこはボリビアであり、村の名前はヴィジャソンと言った。
バスは眼と鼻の先、ラ・キアカ側で我々の荷物を抱えたまま2時間ほど停車していた。
ビジャソン側の我々はそれを遠目に眺めることしか出来ず、
刻々と時間だけが過ぎ、そこから一日一本しかない鉄道で北上するというプランはご破算になった。
ビジャソンで一泊か、さらにバスで北上か……。
見るべきものがなさそうなこの村の小ささは、バスに乗り飽きた我々を次なるバスに乗せるに充分だった。
結局、3時間ほど国境の村で無為に過ごしてからアルゼンチンのそれよりもずいぶんとオンボロなバスに乗り、
さらに8時間ほどのドライブが始まった。
バスの中に充満したインディヘナの人々の独特の体臭と、果てしない悪路と、陽が沈んだ後の荒涼とした景色。
そういうものが一気にコンディションを崩すきっかけになって、風邪と高山病とが併発した。
朦朧とした意識でなんとか楽になれる体勢を探りながら、ただひたすら時間が経つのを待った。
ウユニの街に到着したのは深夜0時30分。真っ暗で、気温は一桁。高度は3600mオーバー。
20kg以上の荷物を背負って歩ける環境ではなかった。
とにかく、最悪のコンディションで宿に転がり込んで、
悪寒と関節痛と闘いながら、浅い呼吸に苦しめられながら、死んだように寝た。
その翌日は完全に病人として振る舞い、
市場の食堂でメシを食っては残し、宿に戻って寝て、身体の怠さに耐えかねて起きて、寝て、
ロキソニンを飲んで、雨が降ったりやんだりするのを眺め、高度順応と風邪の治癒に努めた。
呼吸が浅いのは変わらず、頭痛と食欲不振と関節痛はじんわりと尾を引いていたが、
その間、ふたりの友人は情報収集とブッキングに余念がなかった。
まずは一発目。
ウユニ塩原へのサンライズツアーに参加することにし、夜3時の出発に備えてもうひと眠りしたのだった。
by kala-pattar
| 2014-01-18 14:31
| 行ってきた