【超音速漫遊記 その10】ブエノスアイレス、ふたたび
2014年 04月 08日
タクシーは渋滞に巻き込まれ、ノロノロと進んでいた。
メンドーサからのバス移動で疲れ果てていた我々は渋滞と気温の高さにイライラしつつ、降りるタイミングをうかがっていた。
クリスマス前のブエノスアイレスは見渡す限り車の海で、デモに起因する交通規制が渋滞に拍車をかけていた。
南米到来時、たった一晩泊まっただけのBAだったが、心の何処かに「やっと戻ってきた」という感情があったのを覚えている。
タクシーを途中で乗り捨て、信じられないくらい重たいバックパックを背負ったまま延々歩いた。
ボリビアで滞在したいくつかの街に比べれば何倍も治安が良いこの街を歩くことにもはや恐ろしさはなかった。
ホテルはPalacio Baroloという恐ろしく豪奢なマンションの向かいに建っていて、レトロなエレベーターが据えられていた。
レセプションでチェックインの手続きをしていると、突然照明とエアコンが切れて、この旅で2度目の停電に遭ったと分かった。
自分には4人用のドミトリーがあてがわれ、韓国人の女の子3人組と同室だと告げられた。
誰もいない部屋に入り、むっとする空気のなかで荷物を整理していると、あたりがどうも焦げ臭い。
ふとバルコニーから外を覗いてみれば、ホテルに面した歩道にある分電盤のようなものから盛大に黒煙が上がっていて、
点灯することをやめた信号が佇む車道には消防車が数台駆けつけていた。
インターネットは使えないし、エアコンは効かないし、このホテルに長居する必要はなかった。
ふたつ隣の部屋にいた同行者と連れ立ってフロリダ通りへと両替をしに行き、僕らはそこで別れた。
彼女はブエノスアイレスに訪れている友人とディナーの予定があって、僕にはなんの予定もなかった。
この旅で初めて、僕に一人でぷらぷらする時間が与えられた。
買い物をしたり、飲食店でオーダーしたりという必要最低限のスペイン語をどうにか覚えてはいたけど
不安であることには変わりなかった。
港を歩き、大通りを歩き、路地を歩き、カサ・ロサーダの前で怒号をあげる群衆を眺め、地下鉄に乗った。
B線のホームに降りると、見慣れた帝都高速度交通営団地下鉄時代の500形が滑りこんできた。
本当にこの時の感覚というのは言葉にするのが難しい。
知識として知っていても、地球の裏側でこの赤い車両に出会うと体中に電流が走るかのような感動があった。

地下鉄にはガイドブックに書いてあったとおり物売りや大道芸人が乗っていた。
数駅の乗車区間を楽しんだ僕はタラタラとホテルの周囲を歩いて、何を食べようか逡巡していた。
あまりの気温の高さと緊張から来る疲労で食欲はなく、冷たいビールが飲みたいという考えに支配されていた僕は
宿から100mほど離れたところにあるアイリッシュパブに入った。このさい、ローカルさは無用だった。
上品なテックハウスが下品なイコライジングで鳴り響く店内でビールを頼もうとすると
店員はハイネケンやらバドワイザーやらを薦めてくる。
現地の若者、ポルテーニョたちはローカルのビールに興味が無いようだった。
僕はここまできてハイネケンもないだろうと、アルゼンチン産のビールをくれと大声でオーダーし、
Wi-Fiのパスワードを聴き出し、それが不調であることを知り、ルーターを再起動しろと英語とスペイン語のチャンポンで店員に伝えた。
ビールをだらだらと飲んで、シングルモルトをちびちびとやり、どうやら同行者は戻らないと納得し、
宿に戻った僕は止まったままのエレベーターに舌打ちしながら酩酊状態で階段を延々昇り、自室に入った。
同室の韓国人女子3人は果てしなく地味で、寡黙で、旅行が楽しいのかどうか見ていて不安になる表情をしていた。
メンドーサからのバス移動で疲れ果てていた我々は渋滞と気温の高さにイライラしつつ、降りるタイミングをうかがっていた。
クリスマス前のブエノスアイレスは見渡す限り車の海で、デモに起因する交通規制が渋滞に拍車をかけていた。
南米到来時、たった一晩泊まっただけのBAだったが、心の何処かに「やっと戻ってきた」という感情があったのを覚えている。
タクシーを途中で乗り捨て、信じられないくらい重たいバックパックを背負ったまま延々歩いた。
ボリビアで滞在したいくつかの街に比べれば何倍も治安が良いこの街を歩くことにもはや恐ろしさはなかった。
ホテルはPalacio Baroloという恐ろしく豪奢なマンションの向かいに建っていて、レトロなエレベーターが据えられていた。
レセプションでチェックインの手続きをしていると、突然照明とエアコンが切れて、この旅で2度目の停電に遭ったと分かった。
自分には4人用のドミトリーがあてがわれ、韓国人の女の子3人組と同室だと告げられた。
誰もいない部屋に入り、むっとする空気のなかで荷物を整理していると、あたりがどうも焦げ臭い。
ふとバルコニーから外を覗いてみれば、ホテルに面した歩道にある分電盤のようなものから盛大に黒煙が上がっていて、
点灯することをやめた信号が佇む車道には消防車が数台駆けつけていた。
インターネットは使えないし、エアコンは効かないし、このホテルに長居する必要はなかった。
ふたつ隣の部屋にいた同行者と連れ立ってフロリダ通りへと両替をしに行き、僕らはそこで別れた。
彼女はブエノスアイレスに訪れている友人とディナーの予定があって、僕にはなんの予定もなかった。
この旅で初めて、僕に一人でぷらぷらする時間が与えられた。
買い物をしたり、飲食店でオーダーしたりという必要最低限のスペイン語をどうにか覚えてはいたけど
不安であることには変わりなかった。
港を歩き、大通りを歩き、路地を歩き、カサ・ロサーダの前で怒号をあげる群衆を眺め、地下鉄に乗った。
B線のホームに降りると、見慣れた帝都高速度交通営団地下鉄時代の500形が滑りこんできた。
本当にこの時の感覚というのは言葉にするのが難しい。
知識として知っていても、地球の裏側でこの赤い車両に出会うと体中に電流が走るかのような感動があった。

地下鉄にはガイドブックに書いてあったとおり物売りや大道芸人が乗っていた。
数駅の乗車区間を楽しんだ僕はタラタラとホテルの周囲を歩いて、何を食べようか逡巡していた。
あまりの気温の高さと緊張から来る疲労で食欲はなく、冷たいビールが飲みたいという考えに支配されていた僕は
宿から100mほど離れたところにあるアイリッシュパブに入った。このさい、ローカルさは無用だった。
上品なテックハウスが下品なイコライジングで鳴り響く店内でビールを頼もうとすると
店員はハイネケンやらバドワイザーやらを薦めてくる。
現地の若者、ポルテーニョたちはローカルのビールに興味が無いようだった。
僕はここまできてハイネケンもないだろうと、アルゼンチン産のビールをくれと大声でオーダーし、
Wi-Fiのパスワードを聴き出し、それが不調であることを知り、ルーターを再起動しろと英語とスペイン語のチャンポンで店員に伝えた。
ビールをだらだらと飲んで、シングルモルトをちびちびとやり、どうやら同行者は戻らないと納得し、
宿に戻った僕は止まったままのエレベーターに舌打ちしながら酩酊状態で階段を延々昇り、自室に入った。
同室の韓国人女子3人は果てしなく地味で、寡黙で、旅行が楽しいのかどうか見ていて不安になる表情をしていた。
by kala-pattar
| 2014-04-08 00:51
| 行ってきた