【ネタバレあり】いままで『機動戦士ガンダムUC』を嫌っていた俺が、その完結編を見てひどく感動した理由
2014年 05月 23日
機動戦士ガンダムUC episode 7「虹の彼方に」をAppleTVで鑑賞した。
結論から言おう。
「ガンダム」はもう、これくらい無茶苦茶でいいのだと思う。すごく良かった。ものすごく良かった。
『ガンダムUC』という作品は、もはや宇宙世紀ガンダムファンの多くが大事にしていた
モビルスーツの開発系譜とか出力とか脳波を使用した兵器のホントのところの強さとか機能とかそういうのを全部すっ飛ばして、
ニュータイプとかコロニーとか地球連邦とかのガジェットを使った良質な"ボーイ・ミーツ・ガール"だった。
そのかわり、一応ガンダムのこと知ってる人を泣かせるためのフックとして旧式のMSをガンガン登場させるという手法をとっていたのだった。
なにをいまさら、と思うかもしれない。
何を隠そう、ぼくはこれまでUCという作品を毛嫌いしてきた人間だ。
「なんで富野由悠季以外の人間がニュータイプのありかたとか地球連邦政府の樹立とかミネバ様とか、
シャアとアムロとか、そういう"聖域"にズカズカ入り込んで勝手にお話をでっち上げているんだ!」と思っていた。
この作品を見て「うわ、ジュアッグが出てきた!」とか「うわ、グフ重装型が出てきた!」とか言いながら喜んでいる人たちを心の何処かでバカにしてきた。
「これはオレたち古参ファンのためのガンダムだ!俺達が見たかったのはこれだ!」と思っている人達に苛立ちを覚えていた。
「君たちの愛していたガンダムを、宇宙世紀のMSを、この作品は踏みにじって改変して、商売しているんだぞ!
騙されるんじゃない!これは拡散しきったガンダムシーンに投下された古参ファン向けの流動食だろ!老人食だろ!
もっと歯ごたえのある、奥深い、渋くて難解で歴史的整合性のとれた「リアル」なガンダムを見たかったんだろう!目を覚ませ!」と。
でもそんな作品を作る余地は、もうどこにも残っていないというのも事実である。
宇宙世紀の年表は(架空のモノであるにもかかわらず)隙間なく書き込まれ、映像化され、MSは絵や立体として発表され、
小説があり、コミックスがあり、とにかくもう、ガンダムビジネスに残されたブルーオーシャンは「非UC」にしかないのだ。
だからこそWがありSEEDがありAGEがありビルドファイターズがあるのだ……。
もし、どうしても宇宙世紀を舞台に作品を作りたくて、年表の前後関係に破綻をきたすことなくドラマを作るなら
弱い部隊にそこそこのMSがあてがわれ、どこかの戦線でちょろっとした戦闘があって、部隊が全滅するというシナリオしか残っていないのではないか?
だが、それでは商売にならないし、そんなものを観たい人の数が多くないことくらい俺にでもわかる。
だからこそ、UCは「宇宙世紀に縛られた古いファンのために作った出来の悪いMAD映像」みたいなもんだと信じて疑わなかった。
それでもその作画の素晴らしさや登場する旧式のMSにワクワクさせられてしまう自分がいて、
「まあ、仕事ですからね」くらいの気持ちでUCを追いかけてきて、最後の最後、episode 7を観て、
ようやく自分が典型的な「ダメな意味で宇宙世紀に縛られた古いファン」であることに気付かされた。
目が覚めた。
ガンダムUCは、例えて言うならハリウッド映画のような作りだった。
「バナージが鬼スペックだし地球圏全域を戦略レベルのナニカシラでドータラコータラしてしまうアレが出てきちゃうけど、
まあ前後関係とかは置いといて、まあその……ザックリと楽しいし、とてつもなくギラギラした結末だから全部オッケー!」と思えた。
こういう爽快感をきちんと自覚して作り切った唯一のガンダムな気がする。
すなわちどういうことかというと、今流行のMARVEL系キャラクター映画のような
「娯楽だよ。単体で、リテラシーのない奴が見ても脳内麻薬出る娯楽だよ。
でも一応、元ネタは昔々のアレだよ。だから古参ならニヤリとするネタも盛り込んであるよ。
だからファミリーで観ても、オタク的視点で観てもオッケーよ。」というあの感じ(註1)。
逆に言えば、とにかく時代設定の隙間隙間で整合性のこと気にして視野狭窄に陥りまくってきたガンダムサーガにおいて、
UCというのはある種ハリウッド的な
「都合のいいシナリオかもしれないし超能力みたいなのガンガン使うし、そりゃ細かいこと気にしたらアレかもしらんけど、
ファミリーからガッチガチのオタクまで観る映像作品を作るってことなら、みんなにとっての最大幸福はここだろ!?」
という落とし所を初めてきちんと自覚した上で、初志貫徹で作り上げられた作品なんじゃないだろうか(註2)。
とにかくまあ、それくらい演出が「これでもか!これでもか!」で、意味もなく目が潤んだりした。
物量とかギラギラ感に、圧倒された。それでいいんだと思った。
……いや、クライマックスはひたすらズルい演出のオンパレードで、「うおおお……トミノがやれよ!」と思ったけど、
あんなにこっぱずかしくて酷い演出(褒めてる)をトミノ御大がいまさら自らやるわけないし(だからこその『Gレコ』だ)、
むしろ複数の世代にまたがったガンダムファン(もしくはそれに準じる広くて薄い層)を一網打尽にするならあれくらいやらんとダメなのだ。
「箱」の持つ機能はその意味がわかれば説明などいらないと思うし、「帰って来い」とか言わなくてもいいと思う。
オトナならそれくらい行間読み取って、咀嚼して、深いドラマをじんわりと自分のなかで温めればいい。でもそれは違うのだ。
超ハイコンテクストな構造を理解できる濃いオタクならそれでもいいんだけど、「言わなきゃわからん人」まで掬い取るサービス精神。これ。
ノスタルジーと「説明乙」をうまいこと混在させるセリフや過去映像のフラッシュバック(しかも新作画でおしっこ漏らしそうになる)。
あの演出があってこそ、メッチャクチャな結末があってこそ、ようやく「UCが誰をターゲットにしてなにをしたい作品だったのか」が理解できた。
古参ガンダムファンが「UCは俺たちのためのものだ!」と信じてしまう気分もわかる。理解できる。
しかし、これは真逆の作品なのではないだろうか。
ガンダムのことに興味のある、なんとなくガンダムを知っている、そんなオタクとは真逆の人々に向けて大枠を作りながら、
古参が(勝手に)抱く幻想を、どうすれば極力壊さずにMSやセリフに織り込めるか、とても真剣に考えて設計されている気がする。
とにもかくにも、UC製作陣には最大限の賛辞を贈りたい(何様)。
俺の中にあったいろんな盲信がぶっ壊されたし、「宇宙世紀のガンダム」を使ったエンタメの最たるものだと思う。
……というか、もう独断でぶっ飛びヒョーロンするならば、
ラプラスの箱をいままでずーっと大事に大事に隠していたのは、他でもない「ダメなガノタ」なんだな。
箱の奪い合いに敗れたシャア(フル・フロンタル)と、そこに駆けつけたアムロとララァから発せられる「もう良くね?」という思惟が
なぜか見る者の心にめちゃめちゃ響いてくるのはそのせいだと思う。35周年に相応しいわホント。すっごい感動した。
そんな感じです。
(……書いてから思ったけど、これって「自分を含むめんどくさいガンダムオタク」が読まないとちょっと意味わからないかもしれない。
「中くらいのマニア」からすごい反発されそう。)
(註1)
『ターミネーター』に代表されるように、
「続編だけど細かいSF設定が食い違ってて、でもまあ大枠で見りゃだいたいバラっと観て楽しめるもんになってて……」
というシリーズものがハリウッドには腐るほどある。
それが成立するのはタイトルが強力だから商業的に成功させられる見込みがあって、
さらに年月が経つにつれて技術の進歩が進歩し、表現の幅が広がるからそれを使い切ろうとした結果でもあるのだと思う。
重箱の隅をつついて「ここが『2』と『3』で食い違う!」なんてこまかな設定遊びをWikipediaに書くのは概して保守的なマニアだし、
それを読んだ薄いファンが「知ってた?」と居酒屋の話のネタにするのもある種のエンターテイメントではあるはずだ。
(註2)
じつは、ガンダムサーガとリンクさせながら「("MSの見せ方"というひとつのエクスタシーを突き詰めることで)初志貫徹する」という意味において
誰もたどり着けないチョモランマみたいなものを打ち立ててしまったのが、奇しくも『ガンダム・センチネル』だったりするんだけども、
あれは「プラ板やパテどういう精度で加工できるのが凄いことなのか/どこに何色を置くとカッコよくなるのか」を理解するという
普通の人間にはありえないリテラシーまで求められる「模型専門誌上ならではの特異なコンテンツ」だったわけで、
MSそのものが活写されたフィルム単体では成立しないはずだ(だからこそ、UCでは飛び立とうとしたゼータプラスが踏み潰される)。
by kala-pattar
| 2014-05-23 17:32
| →ガンダム/ガンプラ