【超音速漫遊記 その15】哀れなのはナイアガラではない

カメラを担いで汗だくになりながら細い桟橋をいくつもいくつも渡り、
何のために歩いているのかわからなくなる頃、木々の向こうに上がる盛大な水煙が見えてきた。
イグアスの滝、悪魔の喉笛。
とてつもない量の水がUの字型に穿たれた崖からどうどうと音をたてて落下している。
水煙には虹がかかっていて、展望台にはスマホやコンデジで滝を捉えようと必死な西洋人がたむろしていた。

こんなもの、撮影できるわけがない。
水は常にとどまることなく轟音とともに地球の重力に引き寄せられていて、
滝の全景は自分の視野角よりも広かった。
高さも幅も、レンズとセンサーで捉える対象ではなかった。
あいにくこの旅行では持っていかなかったが、もし魚眼でその全景を収めたとしても、写真で見る水量は印象の1/100になってしまうだろう。

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とにかく、見ることしかできなかった。
ひたすら轟音に耳を傾けて、人生史上最大の量の水が落ち続けるのを眺めた。
地誌学的なことも、生物学的なことも、対岸がブラジルであることも、なにも考えずに
そこには滝があって、あまりの気温と湿度に気を失いそうな自分がいた。

つまらなかった。
こんなもん、ただの巨大な滝だ。巨大なだけで、暴力的で、美しくもなければ味わい深くもなかった。
この光景を誰かと見て、「つまらない」とか「すごい」とか言えたら、少しは違っただろう。
「迫力がある」とか、「これはやばい」とか、そういう薄っぺらい感想を日本語でも英語でもいいから、誰かと共有すれば
滝の光景は"そういうもの"として自分のなかに刻まれたのかもしれない。
とにかく、一人で観るイグアスの滝は雑で大雑把で味が濃いだけのメガ盛りカップラーメンみたいなものだった。

何枚か、滝を撮るのではなく、滝の横に自分の目があったという証拠としての写真を撮影して、僕はそこから立ち去った。
来た時に渡ったのと同じ桟橋を戻り、国立公園の門まで戻るトロッコ鉄道を途中で降りて、俺は森のなかをひとり歩いた。
木々の間に間に見える細い糸のような滝はどれも美しかった。
やっぱり俺は日本人で、華厳の滝や白糸の滝のようなワビサビとか儚さとかそういうのが好きなのだった。
行ってみなければ気づかなかったのかもしれないけど、とにかく素麺のように森から流れ出る滝のほうが、自分にとっての「美しいもの」だった。

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宿に戻った俺は、庭でビールを呷るいろんな国の独身男たちの群れに混じって談笑し、
なんで旅をしていて、どこに行って、どこへ行くのかお互いに報告し合ってから晩飯に繰り出した。
安くて旨い肉をありがたがる日本人を彼らは笑った。牛タンをうまいうまいと平らげる日本人を気味悪がった。
でも、笑ったり気味悪がられたりしても、誰かと一緒に笑いながら食う飯は美味だった。
彼女が欲しい、嫁が欲しいという独身男たちのしょーもない会話は恵比寿や神田の安居酒屋でのそれとさして変わらなかった。
飲み屋を幾つかハシゴして、宿に戻って、また飽きるまでキルメスを呷って、タバコを吸い散らかして、
頭がぼうっとしてきたころに、独身男たちは各々自室に戻って眠りについた。
by kala-pattar | 2014-07-29 00:45 | 行ってきた | Comments(0)