【超音速漫遊記その19】サドン・デス

屍体は次々と火に委ねられていた。
縛めの縄は焼き切れ、赤や白の屍衣は焦げ失せて、
突然、黒い腕がもたげられたり、屍体が寝返りを打つかのように、火中に身を反らせたりするのが眺められた。
先に焼かれたものから、黒い灰墨の色があらわになった。ものの煮えこぼれるような音が水面に伝わった。
焼けにくいのは頭蓋であった。
たえず竹竿を携えた穏亡が徘徊していて、体は灰になっても頭ばかり燻る屍の、頭蓋をその竿で突き砕いた。
力をこめて突き砕く黒い腕の筋肉は炎に映え、この音は寺院の壁に反響してかつかつとひびいた。
(三島由紀夫 『豊饒の海』 第三巻 「暁の寺」より)

この文を何度読み返しただろうか。

マニカルニカ・ガートでは三島が書いたとおり、365日24時間、屍体が焼かれていた。
さぞやドラマティックな場所だろうと過剰に期待を寄せる自分がいた。
生と死が別け隔てなく存在し、すべてが喜びに満ちている土地としてのバラナシに憧れていた。

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屍体は炎の中で焼け、それが灰になるのを待ちきれないかのように、美しい布に包まれた新しい屍体が運ばれてくる。
焚き火を囲むかのように人々はそれを眺め、談笑していた。
それはもう本当に日常で、厳かである必要とかドラマティックである必要などないのだった。

恐ろしくも美しい光景に皆が息を呑む、死んだ人々を仰々しく送葬する装置としての火葬場を想像していた自分にとって
これはかなり衝撃的な事実だった。

かくいう自分も、屍体がその場でパチパチと音を立てながら焼けていく光景にどんな感情も抱かなかった。
閃く炎の隙間には、確かに肩の骨が顕になった屍体が横たわっているのが見えたし、あたりには肉の焼ける匂いが立ち込めていた。
しかし、「なるほど」と思う以外にその光景を咀嚼する方法を自分は持ち合わせていなかった。

明くる日、朝方の散歩の途中で河畔に座り込み、建物の軒にビッシリ居並ぶ鳩を眺めていると
そのなかの一羽が力強くガンジスに向かって飛び立った。
と思ったら、ものの2mほどはばたいたところで、電池がプツリと切れたように墜落した。
墜落した瞬間、下で待ち構えていた犬によって捕食されていた。
鳩はパサパサと最後のチカラを振り絞るでもなく食われるがままになっており、
羽をむしられ、頭をもがれ、頭にくっついた内臓が腹の中からズルズルと引きずり出され、犬の口の周りは赤く染まった。
痩せさらばえた犬はどこまでもいとおしそうに、幸せそうな顔をしながら鳩の生命を頂戴していた。

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その日の昼に、市場の道のど真ん中で眠る可愛い犬を見た。子犬を従え、息をしていた。
もう一度その道を通ったとき、同じ姿勢のままその犬は死んでいて、身体にハエがたかっていた。

マニカルニカ・ガートの光景とそれを勝手に結びつけるのは牽強付会なのかもしれない。
こうしたことは、東京の路地裏でも普通に起きていることなのかもしれない。

とはいえ、バラナシの人々は何をも忌避していなかったように見えた。
生き物が死んでいくことはもちろん、ビンボーであることも、牛のクソを踏んで滑って転ぶことも、人に金をせびることも。
人生には本当にいろいろなことがあるし、めんどくさいこともダルいこともある。
でも、彼らには「全部並列だし、どれもこれも俺らの暮らしの一部だし、まあそういうもんです」というある種の無関心があって
それが何に起因するのかはここで論じたくないのだけれども、つまりそういうことだった。

三島は「ベナレス。それは華麗なほど醜い一枚の絨毯だった」と書いている。

その意味がちょっとだけ分かって、三島ほどの感受性を持ち合わせていない自分も発見して、
なんとなく新年を迎え、なんとなくビールを啜って、すべてを受け入れて滔々と流れるガンジスを眺めて、思った。

「日本に行きたい」と。
by kala-pattar | 2014-08-02 15:19 | 行ってきた