兵器を「人殺しの道具」と呼ぶ思考停止に対して『FURY』が突きつけてくるもの



どうしても観なければ、という思いで、レイトショーに一人で足を運び、『FURY』に浸かってきた。
見終わって、ポケットから取り出したラッキーストライクにZippoで火を点けて、大きく煙を吐き出す。
こんなにタバコが(ラッキーストライクが)吸いたくなる映画はいままで見たことがないかもしれない。
見たばっかりだし自分の中で醸成されていた前提があまりにも多く、目が濁っている上に思考が浅いのが残念だけど
いまとりあえず書けるのは以下のような話です。表層的かつ俯瞰的で甘いけど、まずは書いておこう、と。
(ディテールについては書くことが多すぎるし、書けば書くほどどうでも良くなりそうなのであえて書きません)

■純粋な『映画作品』としてのFURY

たぶんこの作品は一般的な評価(興行収入が伸びる、DVD/BDが売れるといったわかりやすい評価)をされないだろう。
ものすごく雑に言えば、これはマニアックで暴力的でフェティッシュで痛々しい映像だし
そもそも日本におけるプロモーションが「そもそも戦車好きな人」に向けたものに終始している。
海外における映画の受容のされかたについて僕は知識がないのでなんとも言えないけれど、たぶん日本ではウケない。
少なくとも『プライベート・ライアン』のような、「わかりやすい作戦と感動的なプロット」みたいなのとはちょっと違う。

■「僕は戦車が好きだ」と思っている人に伝えておきたいこと

普通の人にはあんまり理解できないかもしれないが、この世界には戦車マニア、戦車の模型マニアというクラスタが存在する。
そういう人たちにとってこの映画は、ストーリーやら俳優やら、そういうものをすっ飛ばして「極上のご馳走」になっている。
まず戦車ってこうやって乗って、こうやって動いて、こうやって戦って、こうやって死ぬのか!ということを
(ウソ満載ながらも)ここまで真面目にやってる映画はなかったんじゃないだろうか。全部の戦争映画を見たわけじゃないけど。

戦車は(シーンによって特殊な大道具も使用されているが)基本的にホンモノだし、
中盤で登場するティーガーはこの世にたった一輛しかない、博物館で動態保存されている個体を使用している。
僕はティーガーにそこまで思い入れもないし、どちらかと言えばそこまで好きな戦車ではないと思っていたのだが
ホンモノのティーガーが恐る恐る(世界にひとつしかないのだ。無理な「演技」をさせて壊すわけにもいかないだろう)登場するシーンは
まるでアイドルが目の前に現れた時のように、大口を開けてそれを両手で隠し、目が潤む程の感激を覚えた。
戦車マニア、というのはまあ、そういう人種である。

逆に言うと、「戦車を知らない人はあれがドイツの最強戦車であることも知らない」という事実に対して
どう演出して、どう見せているのかというのは、「マニアの好きなもの」を扱うすべての人にとってとても示唆深い映画だと思う。
(例えば曳光弾をわざとSWシリーズのレーザーのようにカラフルにしている理由を考えてみると良いのではないだろうか。)

FURY号については「戦後に生産されたタイプのものと戦中の個体からパーツを寄せ集めてレストアしたもの」が使われており
細かいことを言えば「じゃあ1945年の4月のドイツにこの装備を施したシャーマン(FURY号)が存在したのか」という観点でウソがある。
こうしたことは『Armour Modelling (アーマーモデリング) 2014年 12月号』に詳しいので興味のある向きは必読だ。

「ウソがある」と書いたが、それがこの映画の魅力を損なうものであるかといえば、1%も損なっていないと思う。
なぜならドキュメンタリーでない限り、映画は道具を用意して舞台を用意して、イマジネーションを具現化するものだからである。
この戦車のこのディテールは実物通り再現されているのか?、というのは
「画面の隅っこに映った草が70年前のドイツのその場所に生えていたかどうか」というのを真剣に論じているのと大差ない。

もちろん劇中に登場した戦車のディテールを完璧に再現した模型を作ることも
1945年の4月にドイツで死闘を繰り広げていたシャーマン戦車はこの仕様だったはずだと資料を広げるのも
「うおーシャーマンかっこいい!」というパッションでこまかなサブタイプを選びもせずにババっと気にせず模型を作るのも
すべて尊い行為であって、模型はまあ、その人が作りたいと思う動機も違えば結果も違うということを認識しなおした。

■マニアの映画なんでしょ、と思っている人へ伝えておきたいこと

で、この映画を見た感想なんだけど、ものすごく疲れた。
こういう戦争映画を見た後って、たとえば「模型を作る」みたいなモチベーションが湧いてくるものなんだけど、
いまこの瞬間、戦車の模型なんて全然作りたくない。どちらかというとあんまり見たくない。

兵器や戦争を扱ったエンターテイメントについて語るとき
「人殺しの道具を見たり作ったり語ったりして喜んでいるなんて」ということをいう人が存在する。
兵器を愛でて喜んでいる人の心のなかにも大なり小なり葛藤はある(だから赦してくれ、という話ではなく、あるかないか、だ)。
僕はこうした言説について考えたくもないし、軽々しく「人殺し」と括る人々を疎ましく思っていた。

話は飛躍するが、宮崎駿の『風立ちぬ』について
「戦争賛美である」と受け止める人がいて、「戦争は理不尽だからよくない」と受け止める人がいる。
もっと単純化して、ウヨク/サヨクで語る人がいる。こんなくだらない議論があるだろうか。
あの映画(絵物語)は、戦争がなければ美しい飛行機は作られず、さりとてそれは人を殺す宿命を背負っており、
そして戦争が、災害がなければ出会わなかった人々がいて、それは戦争によって引き裂かれもするという話だ。

強いて言うなら、戦争について理不尽であるとか残酷であるとか、そういう自明のテーゼに対してツバ吐きながら、
お前らはこの乗り物と、人と人との出会いや別れの美しさを「戦争だから」「人殺しだから」という理由だけで
心の底から嫌悪することができんのか、という話である。

FURYもまた、同じ気持ちの上に成り立ってるんじゃないか、と思う(文脈でこの映画について語ることはなるべくしたくないのだが)。
であるからして、劇中のシャーマンは死ぬほどかっこいい。ティーガーは恐ろしく強く、
ナチス・ドイツの作り上げたフリッツヘルメットのシルエットは失神しそうなくらい美しく映しだされる。
兵士だろうが民間人だろうがおかまいなしに死んでいく。死んだ人はブルドーザーで遺棄される。
物資を湯水のごとく使い、意味もない憎悪のなかで理性を失いかけながら、エゴを「大義」に重ねて人を殺し続ける。

■ファンタジーとしての戦争映画

戦争はクソだ。
戦争はクソだから、そこは無視しよう。人が死ぬのは表現しない。勝ったほうが正しい、負けた方は狂っていた。
そういう気持ちで戦争(と、それをテーマとした事物)に向き合っている人はとても多い。
言ってみりゃ、プライベート・ライアンだってそういうファンタジーだったと思う。

FURYはファンタジーではないのか?といえばじゅうぶんファンタジーなんだけども、
彼らはあえて泥水をかぶって、「汚くて凶暴で残酷だけども魅力的で仕方がない戦争映画」を、
「本当に人殺しをしていた兵器」を引きずり出してまで作ったんじゃないかな、と勝手に思っている。
だからこそ、エンドロールの映像(それが何かはここでは書かないけど)がとんでもなくメッセージ性に富んでいる。

戦車がかっこいいのには人を殺すという機能が反映されているからなのか、それともホントに人を殺しているからかっこいいのか、
(それ考えて意味あんの?って言われそうだけど)めちゃめちゃ考えます。
少なくとも真顔で「これが見たかったんだよ!これ!」って言う人がいたとしたら、僕はその人とは仲良くできない。

兵器が好きな人にとっては「あんた、これが見たかったんだろ? でも、それって本当だったか?」ってのを突きつけてくるし
兵器に興味が無い人にとっては「戦争、クソだろ? でも、兵器ってめっちゃ魅力的だろ?」ってのを突きつけてくるし
ホントに困った映画です。これ(映画館のカップルを観察してると中盤からけっこう固まってた)。


by kala-pattar | 2014-11-30 15:10 | Movie&Books