話題のリリスクMVで考える「認識とデバイス」のウソみたいな関係について考えてみた。
2016年 04月 07日
もはやインターネットで語り尽くされているので説明はいいだろう。リリスクのMVである。
6人組のヒップホップアイドルユニット、リリカルスクールがメジャーへラップしにやって来た!!
前代未聞のスマホをフル活用した縦型MV!!
カメラ機能、Facetime、Twitter、ありとあらゆるアプリケーション機能を使い、
曲と連動して歌詞や本人達が出現。まるで自分のスマートフォンがジャックされ勝手に操作されているような感覚に!
lyrical school is a hip hop idol group with 6 members
and made a major debut with "RUN and RUN"!!
Its MV is a virtical movie, which is unprecedented and groundbreaking
with taking full advantage of smartphone.
You might feel as if your smartphone is taken over and operated on its own!
それはそうと、このMVの持つ意味性である。
このMVの革新性は「iPhoneという特定の企業の特定のデバイスに最適化されたルックを徹底的に追求したこと」にある。
逆に言うならば、「iPhoneというデバイスで見なければMVの本質は理解できない」というコンテキストの上に存在している。
縦長の動画であること自体は問題ではなく、
自分のiPhoneがジャックされたら果たしてどうなるであろうか、という実験だ。
かつて筆者は『微かなカオリ』 の縦位置PVはジョブズの遺産かもしれん、という話。というエントリを書いている。
これは「縦位置の動画」の持つごく浅いコンテクストについて考察したものだ。
テレビや映画は横長の画面で提供されてきた。つまり「プロバイダと受け手」の関係は、縦横のアスペクト比によって規定されてきた。
そこにスマホが現れ、画面の縦横を気にしない人々(=ユーザーtoユーザーのコミュニケーション)が現れたことで
(デバイスの使い勝手に依存して)縦長の動画を撮影して、(デバイスの使い勝手に依存して)縦長の動画を受け取る
という関係性が出現した。それは金のあるコンテンツホルダーからの動画の提供ではなく
あくまで素人to素人のコミュニケーションを意味するようになった。
かつてポラロイドがラボを通さずに写真を得られるという機能を持ったことにより
エロ(被写体to撮影者がダイレクトに繋がった状態)との親和性を獲得し、ポラロイドそのものがエロティックな意味をまとったように
スマホで縦長の動画を見る、という体験がある意味で被写体と視聴者の関係が縮んだ錯覚を起こしたのである。
その意味合いは「デバイス」とか「プラットフォーム」の存在を意識させなくするある種のトリックでああり、
動画が縦長であるだけで「Perfume」と「俺」の間に挟まるレイヤーをいくつも取っ払ったという稀有な例であったように思う。
こうした事情を踏まえてみると、リリスクのMVはその正反対を行く設計のように思えないだろうか。
自分の持つデバイスの日常的な振る舞いのなかにリリスクを配置するというやり口は、すなわち「デバイスの存在」を顕在化させたものである。
例えて言うならば、『魔法の世紀』で語られる「意識されないコンピューティング」ではなく
自分がデバイスに規定された状態で世界を認識していることを逆手に取ったマーケティングであると言えるだろう。
被写体と視聴者の距離、という意味ではじつはPerfumeとリリスクのMVでそこまで差を感じ取れない、というのが直感だ。
自分の手のひらのなかのデバイスの、さらに見慣れたLINEの画面のなかにいるリリスクと、
自分の手のひらのなかのデバイスのなかで、(ほぼ無加工な)縦位置動画のなかで踊るPerfume。
そこに横たわる文脈はかなり異なるものだが、さて僕らはどちらにドキドキするだろうか。
自分のデバイスがジャックされるというドキドキの質なのか、被写体と視聴者(僕ら)との距離の近さにドキドキしているのか。
一日考えたけど、結局結論は出なかった。
しかしはっきりしているのは、「被写体と視聴者の距離」はデバイスの違いで明らかに異なる、ということである。
テレビや映画に出現する女の子(男の子)と視聴者の距離よりも、
スマホ(縦位置の画面)に出現する被写体と視聴者の距離のほうが、絶対に近い(と、錯覚する)。
リリスクのMVをふまえた上で、次なる手をどんな被写体でどんな表現でこの錯覚を使う人達が出てくるか、というのがとても楽しみだ。
※インスタが正方形なのはやっぱりまだ考えるところで、あれは客観性と主観性の間に存在するスクエアフォーマットをうまく利用していると思う。
そして、最近fbやtwitterでやたらとシェアされるスクエアフォーマットの短い料理動画なども
「身近なもの」と「誰か自分より上位の存在が自分に教えてくれているもの」のバランスをとる上で「動画の縦横比」がものすごく大きく作用している気がする。
あくまで思考の練習というか、ドラフトっぽい書き方になってしまったが
スマホを手にした現代人が画面のアスペクト比によって「そこに写っているもの」と「見ている私」の距離感をさまざまに認識しているのは確かだと思う。
そしてそれはスマホというデバイスが出現するまで理解できなかった現象だと思うと
やはり「我々の認識はデバイスに規定されている」というのがめちゃくちゃ興味深く思えてくるのだ。
※反射光と透過光で人間の注意レベルが違う、というのも最近良く言われるようになってきて、それもまた面白い。
※書いてから考えるタイプなので追記。
フィルムって、長いものをガーッと回転させることでさっさと次のコマに送る必要に駆られて一コマのアスペクト比が横長になったと思うんですよね。
で、フィルムがなかったらテレビやパソコンは横長の画面にならなかったと思う。
デジタルの時代になって(フィルム送りという制約がなくなったことで)動画がアスペクト比という概念から解き放たれた、
と同時に携帯は操作性の要求(片手親指で操作する必要性)から画面が縦長になった。
縦長の画面に人間が慣れると同時に動画のデジタル化によってアスペクト比が自由を得たというのがめちゃんこ面白いと思うんですよね。
RUN and RUN / lyrical school 【MV for Smartphone】 from RUNandRUN_lyrisch on Vimeo.
6人組のヒップホップアイドルユニット、リリカルスクールがメジャーへラップしにやって来た!!
前代未聞のスマホをフル活用した縦型MV!!
カメラ機能、Facetime、Twitter、ありとあらゆるアプリケーション機能を使い、
曲と連動して歌詞や本人達が出現。まるで自分のスマートフォンがジャックされ勝手に操作されているような感覚に!
lyrical school is a hip hop idol group with 6 members
and made a major debut with "RUN and RUN"!!
Its MV is a virtical movie, which is unprecedented and groundbreaking
with taking full advantage of smartphone.
You might feel as if your smartphone is taken over and operated on its own!
それはそうと、このMVの持つ意味性である。
このMVの革新性は「iPhoneという特定の企業の特定のデバイスに最適化されたルックを徹底的に追求したこと」にある。
逆に言うならば、「iPhoneというデバイスで見なければMVの本質は理解できない」というコンテキストの上に存在している。
縦長の動画であること自体は問題ではなく、
自分のiPhoneがジャックされたら果たしてどうなるであろうか、という実験だ。
かつて筆者は『微かなカオリ』 の縦位置PVはジョブズの遺産かもしれん、という話。というエントリを書いている。
これは「縦位置の動画」の持つごく浅いコンテクストについて考察したものだ。
テレビや映画は横長の画面で提供されてきた。つまり「プロバイダと受け手」の関係は、縦横のアスペクト比によって規定されてきた。
そこにスマホが現れ、画面の縦横を気にしない人々(=ユーザーtoユーザーのコミュニケーション)が現れたことで
(デバイスの使い勝手に依存して)縦長の動画を撮影して、(デバイスの使い勝手に依存して)縦長の動画を受け取る
という関係性が出現した。それは金のあるコンテンツホルダーからの動画の提供ではなく
あくまで素人to素人のコミュニケーションを意味するようになった。
かつてポラロイドがラボを通さずに写真を得られるという機能を持ったことにより
エロ(被写体to撮影者がダイレクトに繋がった状態)との親和性を獲得し、ポラロイドそのものがエロティックな意味をまとったように
スマホで縦長の動画を見る、という体験がある意味で被写体と視聴者の関係が縮んだ錯覚を起こしたのである。
その意味合いは「デバイス」とか「プラットフォーム」の存在を意識させなくするある種のトリックでああり、
動画が縦長であるだけで「Perfume」と「俺」の間に挟まるレイヤーをいくつも取っ払ったという稀有な例であったように思う。
こうした事情を踏まえてみると、リリスクのMVはその正反対を行く設計のように思えないだろうか。
自分の持つデバイスの日常的な振る舞いのなかにリリスクを配置するというやり口は、すなわち「デバイスの存在」を顕在化させたものである。
例えて言うならば、『魔法の世紀』で語られる「意識されないコンピューティング」ではなく
自分がデバイスに規定された状態で世界を認識していることを逆手に取ったマーケティングであると言えるだろう。
被写体と視聴者の距離、という意味ではじつはPerfumeとリリスクのMVでそこまで差を感じ取れない、というのが直感だ。
自分の手のひらのなかのデバイスの、さらに見慣れたLINEの画面のなかにいるリリスクと、
自分の手のひらのなかのデバイスのなかで、(ほぼ無加工な)縦位置動画のなかで踊るPerfume。
そこに横たわる文脈はかなり異なるものだが、さて僕らはどちらにドキドキするだろうか。
自分のデバイスがジャックされるというドキドキの質なのか、被写体と視聴者(僕ら)との距離の近さにドキドキしているのか。
一日考えたけど、結局結論は出なかった。
しかしはっきりしているのは、「被写体と視聴者の距離」はデバイスの違いで明らかに異なる、ということである。
テレビや映画に出現する女の子(男の子)と視聴者の距離よりも、
スマホ(縦位置の画面)に出現する被写体と視聴者の距離のほうが、絶対に近い(と、錯覚する)。
リリスクのMVをふまえた上で、次なる手をどんな被写体でどんな表現でこの錯覚を使う人達が出てくるか、というのがとても楽しみだ。
※インスタが正方形なのはやっぱりまだ考えるところで、あれは客観性と主観性の間に存在するスクエアフォーマットをうまく利用していると思う。
そして、最近fbやtwitterでやたらとシェアされるスクエアフォーマットの短い料理動画なども
「身近なもの」と「誰か自分より上位の存在が自分に教えてくれているもの」のバランスをとる上で「動画の縦横比」がものすごく大きく作用している気がする。
あくまで思考の練習というか、ドラフトっぽい書き方になってしまったが
スマホを手にした現代人が画面のアスペクト比によって「そこに写っているもの」と「見ている私」の距離感をさまざまに認識しているのは確かだと思う。
そしてそれはスマホというデバイスが出現するまで理解できなかった現象だと思うと
やはり「我々の認識はデバイスに規定されている」というのがめちゃくちゃ興味深く思えてくるのだ。
※反射光と透過光で人間の注意レベルが違う、というのも最近良く言われるようになってきて、それもまた面白い。
※書いてから考えるタイプなので追記。
フィルムって、長いものをガーッと回転させることでさっさと次のコマに送る必要に駆られて一コマのアスペクト比が横長になったと思うんですよね。
で、フィルムがなかったらテレビやパソコンは横長の画面にならなかったと思う。
デジタルの時代になって(フィルム送りという制約がなくなったことで)動画がアスペクト比という概念から解き放たれた、
と同時に携帯は操作性の要求(片手親指で操作する必要性)から画面が縦長になった。
縦長の画面に人間が慣れると同時に動画のデジタル化によってアスペクト比が自由を得たというのがめちゃんこ面白いと思うんですよね。
by kala-pattar
| 2016-04-07 00:42
| オモロ素材/サイト