"漢字の再発見"に震えろ!『タイポさんぽ 台湾をゆく: 路上の文字観察』書評
2016年 06月 14日
「文字を見る」ということが、こんなにも多くの学びをもたらしてくれるということに驚いた。
藤本健太郎氏による『タイポさんぽ―路上の文字観察』および『タイポさんぽ改: 路上の文字観察』の続編にあたる。
台湾は中国本土で使われているような簡略化された漢字(簡体字)の文化ではなく、
我々日本人が使う漢字とほぼ同じ、「繁体字」を使う文化を持つ。
台湾の人々は、中国本土との確執もあって「漢字を使う」ということに果てしなく自覚的な人々だ。
ありとあらゆる表記を徹底的に繁体字で表現し尽くすその気迫に、旅行者は圧倒される。
かく言う筆者も昨年春に台湾を初訪問し、その洗礼を受けた。
簡体字はその独特なルールから我々日本人の使う漢字とかなり異なる姿をしており、意味も日本で使うそれとは大きく違う。
しかし、台湾で見る繁体字は少なくとも「読める」字をしている。
意味については確かに違うのだが、わずか2泊の旅行でも出現パターンを見極めることで理解度が上昇してくる。
筆者の藤本氏が「ノリでイケそなパラレルワールド」と綴る通り、
本著は同じ漢字文化を持ちながら違う国に済む人々の歴史、考え方、美的感覚を多方面から洞察する試みであると言えるだろう。
冒頭、台北の空港に到着するシークエンスから藤本氏の興奮は炸裂する。
既発の『タイポさんぽ』および『タイポさんぽ・改』で書かれた「巧拙を問わず、デザイナー(=詠み人)が字というものにどう挑んだのか」という考察は、
あくまで日本語を日本人が解するという前提で成立するものであったが、今回は「異邦人」というファクターがそこに入ってくる。
異邦人でありながら、文字の大意を共有するからこそ、台湾という舞台は輝き始める。
藤本氏は台湾の気温と喧騒のなか、ありとあらゆる看板を、ときに意味がわからなくても採取し続ける。
漢字のタイポグラフィに凝らされた趣向を分類し、日本語で考え、ときにその技法を命名しながら解読しようとする。
やがてそこにパターンが立ち現れる。
文字とはパターンである。
同一の物体に同一の文字や音声を当てることで、それが「意味」となる。
意味を解するということは、すなわち言語を理解するということだ。ありとあらゆる言語でこの法則は成り立つ。
この本から学ぶべきことのひとつに「言語を(大なり小なり)習得する」というプロセスがあるのではないだろうか。
話す、書く、読む。
これは確かに優れた学習法であるかもしれないが、
文字(タイポグラフィ)に敬意を払い、なぜこの字がこの場所に、このデザインで存在するのかを考えることで
人は知らず知らずそこに法則性を見出し、その国の言語に接近していく。
文字は歴史でもある。
中国の漢字があり、日本の漢字があり、ひらがながあり、現在の簡体字と繁体字があった。
それらは台湾という数奇な運命をたどる島国のなかでそれぞれが違うルートを通って交錯する。
文字のデザインに興味を持ち、これを採取して整理することで、
20世紀に起きた東アジアでの出来事のそれぞれが台湾のタイポグラフィ文化に大きな影響を及ぼしていることが明らかになる。
文字は美意識でもある。
漢字と平仮名とアルファベットをごっちゃに扱う日本人は、それらをひとつのボウルにぶちこんだタイポグラフィのサラダを貪っている。
が、台湾での文字は「繁体字」を意味する(本著で書かれる「スマホで音訓のひらがなを使わず繁体字を入力する方法」には驚かされた)。
繁体字を書き、繁体字を読み、そこに無限の可能性を込めなければいけない台湾の人々は
日本では考えられないような文字のアレンジを施し、そして受け手もそれを受容するだけの懐の深さを持っている。
「どちらが優れているか」ではないが、その縦横無尽ぶりに我々はある種の甘酸っぱい憧憬のようなものを抱く。
長きに渡る漢字文化の歴史と変革を往還しながら台湾におけるタイポグラフィは進化を続けてきた。
そこに醸成された"美意識"は、我々が普段見慣れているはずの漢字を改めて面白いものであることに気づかせてくれる。
本著は藤本健太郎氏による「漢字の再発見」の過程を克明にとらえたドキュメンタリーである。
短い台湾旅行のなかで日々親しんできたはずの「漢字」が異なる文脈で、異なる美意識で、ことなる歴史的背景をもって生きている。
そこに驚き、呆れ、喜び、圧倒される一人のデザイナーが、
持てる全ての言葉をもって我々「あんまり意識してなかった人」に平易な日本語で説明をしようと必死になっている。
だからこそ本著は「珍奇なるもの」を面白おかしく捉えるのみにとどまらず、
東アジア史、デザイニングの基礎と応用、食文化、街における美観への思考法までを微細に学ぶためのきっかけとしてまたとない傑作となっている。
(柯志杰氏によるコラムもまた、台湾における漢字の生と死を現在進行形で抉り出しており、唸ってしまう。)
「スゴい漢字に会いに行こう!」という帯文は、強烈な漢字のアレンジを意味するのみではない。
我々が使う"漢字"という文化の持つ奥行きの深さと、それを使う人々の息遣いに目を向け、
我々が日々の暮らしの中で目にする文字に対する畏敬の念と親しみをより濃厚なものにしてくれる。
そんなことを考えさせられる快作であった。必読である。
by kala-pattar
| 2016-06-14 22:55
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