【書評】我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか
2016年 06月 25日
わが戦友である廣田恵介の『我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか』がとうとう出版された。
最初に断っておこう。
この本は「変なプラモを見てニヤニヤしよう」という内容ではない。
まして「日本のプラモデル史をパンツという観点で俯瞰しよう」というカタログでも、「スケベ心を開放しよう」などといった呼びかけでもない。
廣田恵介という一人のプラモデル大好き人間の苦悩を描き切った、私小説である。
モデルグラフィックスの編集部で働いていた僕が彼に初めて仕事を頼んだタイミングを正確には覚えていない。
氷川竜介氏に原稿をお願いしようと思ったら、「書きたいが、どうしても時間がとれない。筆が速くて中身のある文ならば、廣田くんに頼むといい」と言われた。
それがきっかけで、僕は廣田恵介という男に何度も何度も原稿を頼みまくった。
彼にプラモデルやアニメのことを解説してもらう、というのは僕にとって、いつも特別なことだった。
彼はメカマニアでもなければ、史実やプラモデルの製造技術に詳しい訳でもない。
ただ、「俺は、オレたちは、目の前にある事象(プラモやアニメ)とどう切り結んだか」ということを書ける人を僕は他に知らない。
どこの寸法が何ミリだとか、ヒジの可動域が何度だとか、スジ彫りやリベットが滑った転んだという話は正直誰にでも書ける。
そんなもん、見ればわかるからだ。
彼はそうではなく、
「このプラモデル(もしくはアニメ)に対して、オレたちはどんな気持ちを抱けばいいんだろうか。」
「これを生み出した人は、どんなことを考えたんだろうか。」「なんでこんなことをしたんだろうか。」という視点でモノを考える。
うっかりすれば金太郎飴のように「出来が良い」「こんなものもプラモデルになった」という汎用定型文で氾濫してしまう評論の世界に
「だってお前、これってスゴイことじゃないかよ」という気持ちをキチンと乗せて書ける人はとても貴重である。
時としてこちらがバカみたいなタイミング(「あと6時間で書いて下さい」みたいな発注)で文章を発注しても、
彼は他の仕事を全部ストップさせて、僕の依頼を受けてくれた。
ツマラナイ(誰でも書ける)原稿が上がってきたら
速攻で電話を入れて「廣田さんね、ツマラナイです。もっと情念が、狂った気持ちがこもった原稿じゃないとダメです」と伝えた。
彼はそういう時に一切反駁せずに「わかった」とだけ言って、まるまる原稿を書き換えてくれた。
15歳も下のペーペーに電話一本で「ツマラン」とか「狂気が足りない」とか言われても、
彼は何度も何度も僕と酒を呑んでクダを巻いて、最後はキャバクラに行って記憶をぶっ飛ばしたりして(僕はたまに介抱されて)、
そういうディープでクレイジーな付き合いが10年近く続いているような気がする。
廣田恵介という男は中学三年生のとき、『うる星やつら』のラムちゃんに恋をしてしまったのだと言う。
そのきっかけになったというエピソード『ときめきの聖夜(10話)』を僕も見たのだが、そこにいるラムちゃんは恐ろしく「いい子」である。
中学三年生がこんなに「いい子」を見て(それが二次元だったとしても)、恋をしてしまうのはごくごく普通だと思った。
しかし、プラモを愛し、ラムちゃんを愛した彼を悲劇が襲う。
バンダイからラムちゃんのプラモデルが発売されたのだ。
4種類発売されたラムちゃんのプラモデルのうち、1種類は「セーラー服」を着たものである。
内側の空隙を再現するために前後に分割されたスカートがあり、その内側に収まる胴体のパーツの下腹部には"パンツ"が彫刻されていた。
プラモデルというのは何か(=モチーフ)を金型で成形可能なパーツに置き換え、ユーザーの手元に渡すための媒体である。
「媒体」というのはつまり、再現性である。モチーフを「誰の手でも復元可能な要素」に還元するのがプラモデルの本質だ。
「ラムちゃんのプラモデル」はユーザーに"パンツの復元"を迫るアイテムだった。
ユーザーが「パンツを見たい」と思うと思わざると、そこにはパンツのカタチが彫り込まれたパーツがあるのだ。
これはすなわち、「ラムちゃんというモチーフに"パンツ"は内包されるのかどうなのか」という問いでもある。
彼はこの問いを前にして、激しく葛藤した。
「パンツを無視する」か「パンツを受け容れる」か。
ふたつの選択肢のどちらをとってもラムちゃんに対する自分の意識を顕在化させてしまうことに動揺した彼は
「あくまでもプロダクトへの敬意としてパンツはパンツらしい色に塗る」という選択をした。
(個人的に、スカートのパーツに真鍮線を打って着脱可能にしたことはさして重要ではないような気がする。)
「俺はラムちゃんのパンツを見たいわけではない」「しかし、目の前に確かにラムちゃんのパンツとされたものが存在する」
ここに折り合いを付けられなかったことで、彼は50歳を間近にした現在に至るまでギクシャクとした人生を送ることになる。
パンツひとつになにを大げさな、と思うかもしれないが、それが事実であることはこの本を読めば克明に記されている。
彼の脳裏にこびりつく"ラムちゃんのパンツ"に対する葛藤が人生の要所要所に現れ、彼の決意や安住の地を打ち砕く。
それはまるで「溝口」の眼前に現れて行為を無にしてしまう金閣寺の幻影のように……。
この本は、そんな廣田恵介が「なぜラムちゃんにはパンツが彫刻されたのか」を取材し、
その後連綿と続く「美少女の立体物」を世に送り出した人々に彼の葛藤を正面からぶつけていくロードムービーだ。
「大きくて強いもの/可憐で儚いもの」を意のままにでき、万能感すら得られるメディアであったはずのプラモデルが
なぜ人々を引きつけ、ときに苦悩させるのか。
これは僕がいままでに頼んだどんな原稿よりも生々しく、狂気に満ち、リアルで苦しい物語である。
当然ながら本文中に「多分」とか「おそらく」という予断は極めて少ない。
30年以上自分を苦しめてきた幻影にオトシマエをつけるべく、地道に資料を集め、取材を重ね、"秘密"を持つ自分を許す過程。
そんなもん、どんなジャンルのどんな評論でも読んだことはない。
資料的価値、プラモデルを作ることの楽しさと恐ろしさ、
成熟しきった現代のフィギュア文化と狂乱の80年代におけるサブカルチャーとのコントラスト。
一人の男が呪縛から逃れるために書きまくった文章から得られることは極めて多い。
プラモデルに興味がなくても、パンツに興味がなくてもかまわない。
あなたのなかにコンプレックスはないか。後ろめたいことはないか。
そのうしろめたさに、コンプレックスに、きちんと対峙したことはあるか。
誇りを持って仕事をしているか。人の人生にしっかりと影響を与えられているか。
居場所は人に作ってもらうものじゃない。ここが居場所だと人に決めてもらうものでもない。
全ての人は秘密を持っていていいのだ。それが美しい思い出になるよう、頑張って生きることだ。居場所を獲得するために戦え。
そういうメッセージが全ページから放たれた、覚悟の物語である(だからこそタイトルの主語が「我々」なのだ)。
極めて恐ろしく、美しい本。
あなたがこれから歩いていく上で、間違いなく道標になってくれる一冊。
読まずに死ぬのは、あまりにももったいない。
by kala-pattar
| 2016-06-25 19:43
| Movie&Books