プラモデルが好きなあなたに贈る、「プラモデルを作らない権利」の話。
2017年 03月 01日
数え切れないほどのプラモデルを買ってきた人生だけど、自分が満足行くカタチで完成させたのは数える程度。
プラモデルを趣味にする人のほとんどが、そんな感じなんじゃないかと思います。
もしも、作るぶんだけのプラモデルしか買わず、それを片っ端から納得行く仕上がりで完成させられているという人がいたら
その人はとても強い意志の持ち主で、忍耐強く、かっこいい模型人生を歩んでいるのだと思います。
僕たちはどうして、自分の生涯で作りきれるはずのないほどのプラモデルを買い込んでしまうのでしょうか。
その問いになんとなくの答えが出ているから僕はこうして模型の写真を撮りつづけ、ブログを書いたりしているのですが
突然模型屋の片隅に「答え」が置いてあったので、今日はこれを紹介しようと思います。
前から視界の端にチラチラとは入っていたのですが、ペーパークラフトというのは本当に危険な沼なので、見て見ぬふりをしてきました。
「プラスチックじゃないから、こいつは仲間じゃない」というよくわからない言い訳を自分のなかで唱え続けて、
「こんなにおしゃれでハイセンスなものにフラリと魂を引かれてしまっては、モデラーの名がすたるじゃないか」と思い込んでいたのです。
テラダモケイの1/100建築模型用添景セットというのは本当に魅力的なラインナップを展開しています。
ハガキサイズで、日常の風景を、うまくデフォルメして、レーザーカット加工がされたキレイな色の厚紙に落とし込んでいます。
はい、このように大変危険な、魅惑的な紙の模型なんですね。しかし、「紙だから立体的ではない」という僕のよくわからなこだわりのせいで
いままでその本質について考えたことがなかった。バカです。
もっとバカなことに、大の宇宙開発ファンである僕は、マーキュリー宇宙飛行士という文字を見て、いてもたってもいられなくなってしまった。
モチーフの奴隷であります。周到に仕掛けられた罠に、まんまとハマってしまった。
そういうわけで、買ってじっくりと眺めてみたのです。
人間には「未組み立てのものを見ると、組みたくなってしまう」という習性があるのではないでしょううか。
だからこういう展開図みたいなものを見ると、脳内にどばーっと麻薬が放出されて、さっき見せたような「完成形」を夢想します。
もしこれが完成状態だったらどうでしょうか。あまりにも繊細で、あまりにも脆弱で、組む労力にかけられたコストのせいで、
とてもじゃないですが、買ったり売ったりするには適さないものになってしまうでしょう。
未組み立ての家具は、組み立てた後に家具として使うことを前提として買うと思います。
しかし、ペーパークラフトは「組み立てる工程」に歓びがあるからこそ、その製品形態が「アリ」になるわけです。
プラモデルだってそうですね。いくら出来の良いミニカーがあったって、プラモデルのほうがほしいという人は、ミニカーを買わないはずです。
「俺が作る」ということが大事だから。
塗る、とか貼る、ということを、誰にも強制されていないのに、やってしまう。未組み立てのものを見たら、そういう使命感に襲われる。
キットというのは、すなわち人間のそういう心理を突いた、極めて巧妙な罠なのです。
(ちなみに、ガンプラは塗らなくてもいいし貼らなくてもいい形態でポピュラーになったのかもしれません。
でも、人と違うものにしようと思った瞬間、あなたは塗ったり削ったりする必要に駆られるのです。)
でもですね、よく見てください。
このペーパークラフト、のりしろがないんですよ。
紙を思った通りに折ったり丸めたりするのって、じつはとてもむずかしい。
さらにのりしろのない紙の断面同士をキレイに貼り合わせるのはそれ以上にむずかしい。
で、あなたはこの、美しく配置された展開図の状態よりもさらに美しい完成品を作ることができるでしょうか。
少なくとも、僕にはその自信がありません。
だから、これを作った人はたぶん、「売られている時状態でも充分美しいレイアウトであるべきだ」と思っているはずです。
完成状態を夢想し、その過程を夢想することが充分に楽しいことを知っているからこそ、
完成していない状態が永続的であっても困らないよう、美しいレイアウトで、美しくカットされた紙がそこにある。
なんなら、完成させなくてもいいじゃない、と作者が言っているようにも思えます。
プラモデルだって、一旦手を付けたらそれはもう「中古のプラモデル」ではなく、「お手つき」になってしまう。
だから、他人が手を付けたプラモデルにはほとんど値段がつきません。全く手が付いていない状態か、完成した状態にしか価値がない。
そういう意味で、プラモデルは箱に入った状態で完成しており、誰かの手によって二度目の完成を迎えるのだと思うのです。
模型というのは「見立て」でもあります。
1/100スケールに縮んだ人間は、果たしてその個性を見分けることができるでしょうか。
髪の毛が長いから女の人だな、とか、背が高いから外人なのかな?くらいの判別はつくかもしれませんが、
その人がかっこいいのか、きれいな目をしているのか、シュッとした指をしているのかは見分けがつきません。
でも、模型というのは「ここにこういうものがある」ということを主張するために、実物のディテールをスケールどおりに縮小するのではなく、
誇張したり省略したりするスポーツです。
面に対してミゾが一本走っていれば、そこは「別のパーツなんですよ」という説明になる。
テラダモケイのマーキュリー宇宙飛行士編では、全く同じ形状の人間がドンドンドンと並んでいるのですが、
裏返して説明書を見ると、そこにはスコットとかゴードンとかジョンとか書いてあり、「ああ、こいつらがマーキュリー・セブンなのか」と気づく。
で、前に立っている人がフォン・ブラウンで、この小さいのはチンパンジーなのか、と思い知らされる。
一旦そうだと思ったら、もうただの同じ形の紙の切れ端が、宇宙飛行士としてのありがたみを伴ってひとつひとつ立ち上がってくるのです。
ほとんど、マジック。
未組み立てでも美しいことがそれ自体価値を持ち、組み立てる自分を夢想し、完成形を夢想することの歓びを知っている。
省略と誇張が解像度に応じて設定されており、見立ての歓びを知っている。
テラダモケイの仕掛け人は、プラモデルの狂おしいほどの楽しさを完璧に理解した上で、
建築模型という世界の側から、紙という素材で僕らを殴りに来ている……こりゃ大変だ……と思ったのです。
んで、テラダモケイのWebサイトを覗いてみたら、そのことが全部書いてありました。
「レプリカ」と「模型」の違い。ディテール(解像度)のこと。ディフォルメ(見立て)のこと。「模型は二度完成する」ということ。
僕らがプラモデルを好きな理由が、ここに全部書いてありました。
なんで「どうということはない、日常の風景」を模型にしているのかも、この文章を読めばガチンガチン伝わってきます。
ごめんなさい。完敗です。
あなたがプラモを買う理由は、作るためであり、完成品を手に入れるためかもしれません。でもそれが100%ですか?
作ることを夢想したり、完成した状態を夢想する「パーフェクトな時間」を買っているのではないですか?
だからこそ、ランナーに付いたパーツはどんなモチーフだって美しい。でも、手を付けた瞬間、その美しい状態は失われてしまう。
「さあ作れ、さあ塗れ、さあ積みを崩せ」というのは勇ましく、前向きな意識かもしれません。
しかし、僕の人生は有限で、作れるプラモデルの数は決まっていて、どんなキットも美しく仕上げられるほどのテクニックはない。
そういう人だって多いはずです。作るのが追いつかなくたって、プラモデルを買うのはやめられない。止まらない。
そういうときは、「ランナーに付いたパーツが愛おしいから、プラモデルを買うんだよ」と開き直る権利が、あなたにはある。
「これからも胸を張って、プラモデルのランナーの写真を撮り続けよう(楽しいから、たまには作るけどね)」
そう思った、2月の終わりの日でした。
※建築模型の話についてはこちらも面白いのでぜひ読んで下さい。
by kala-pattar
| 2017-03-01 00:17
| →SPRUE CRAZY