で、貴方が観たいのは映画なの?ミリタリー・ポルノなの?
2017年 09月 15日
映画『ダンケルク』を観てきました。
クリストファー・ノーランが戦争をモチーフに映画を撮るとこうなるのかぁ、という感じです。構図とか、カット割りとか。
これを捕まえて「昔ながらの戦争映画との違い」みたいなことを言ってもしかたありません。
"勝てば官軍"みたいなノーテンキな戦争映画を撮るのが許されない世相であることは否定し難く、
ピンチに陥ったポンコツ部隊が一発逆転というストーリーだって、もう流行らないでしょう。
個人的に運が良かったのは、イギリスでスピットファイアやブリストル・ブレニム(実際にこの映画に"出演"した機体)をこの目で見た直後に
劇場のスクリーンでバリバリと活躍する姿を観られたことで、それはたまたま経験とスクリーンのあいだに繋がりができたということにすぎないにせよ
たいそう興奮する出来事ではありました。
はてさて。
SNSにはノーランの「ホンモノ主義」を錦の御旗にして、実際の大戦機を動員した撮影に喝采が送られています。
そしてその付け合せとして「メッサーはホンモノではない」「カメラプレーンであるスピットファイア役はYak-52」という豆知識がもてはやされています。
もてはやされているというか、「その違いがわかる俺」というアピールが、この映画を観た人にとっての快感ポイントになってやしないでしょうか。
これって、スティーブ・ジョブズの死後に撮った映画『スティーブ・ジョブズ』の主人公がスティーブ・ジョブズ本人ではない、と言ってるのと同じで
映画の批評としてもっとも下卑たモノの見方なんじゃないかな、と思ったりします。
ダンケルクとは、ダイナモ作戦とはなんだったのか?というのを映画というメディアで描こうとしたときに、
それがスピットファイアを使おうが、足こぎのスワンボートを使おうが、本質的には変わらないと思うのです。
ただ、映像というわかりやすい表現手法を使うとなると、(それがなまじホンモノを使えるがばかりに)"ホンモノと違うところ"にフォーカスしてしまう。
これって批評ではなくて、ただの間違い探しでしょう。
FURYの論評でも書きましたが、じゃあ画面の端に映ったその草は、二次大戦中にホントに生えてたのか?
映画って、そうじゃないでしょう。
そういう意味で、俳優も飛行機も、たいへんな熱演を見せてくれました。
(追記/スピットファイアもメッサーもHe111もスツーカも、当然ながらプラモで作りたくなる質感に感激しました)
人間がわけも分からぬまま戦いに巻き込まれ、よくわからない正義感で隣人を踏みにじり、よくわからない攻撃で散り散りになる。
それでも、大義のもとに、自分の生存本能のために、目の前のことをどうにかしなければならない。
戦争って理不尽ですけど、だからこそ愛するものと憎むものに対する原理が(合理的でないこともしばしばだけど)むき出しになる。
そういうのを観て、あなたはどう思ったんすか?というのを、私は読みたい。
知っているかそうでないか、ではなく、感じられたかそうでないか。伝えられるか、そうでないか。
そこにしか、本質的な違いはないと思うんですよね。
映画の感想にならなかったけど、映画を観て残った疲労感はただひたすらにそこに起因しています。
皆さんは、映画を観ていますか?それとも、知識の答え合わせをしているのですか?
by kala-pattar
| 2017-09-15 00:40
| Movie&Books