拝啓、松本電気鉄道様。

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ガリ勉の極みを尽くして中学に進学した自分は、部活の選択に迷っていた。
日本の中学校に山岳部があるというのはとても珍しくて、小さいときに親に何度も連れて行かれていた山登りは嫌いではなくて、
文化部よりも運動部に入って体を動かしたいという自分と、誰かと何かを競う競技を部活に入りたくないという自分がコンフリクトした結果は自明であった。
新人歓迎登山と銘打った低山ハイクは中央沿線のハイキングコース。しかし13歳の男子には、自分で煮たラーメンを空の下で食うのが無上の喜びである。

はじめての夏合宿は、北アルプスだった。

夕方から新宿駅ホームで同じようにバックパックを背負った山男たちに囲まれ、日付が変わる頃にホームへと滑り込んでくるのは183系の急行アルプス。
松本駅から始発の上高地線に揺られ、新島々へ。そこからバスに乗り換えて上高地に向かい、その日は横尾まで重い荷物を背負ってひたすらに歩かされた。
そう、中高一貫校の部活というのは昨日までランドセルを背負っていた人間と、来年には大学受験を控えた思春期真っ盛りの青年が同居するので
体力も、背負う荷物も、歩く速度も、なにもかもが噛み合わない。オトナの考える山行とはかけ離れたちぐはぐな隊列は、とても辛い記憶として残っている。

結局その合宿は3泊もしながら常念岳のピークを踏んで帰るだけの、思えば何も楽しくない、厳しいだけの山行だった。
そのあと山岳部には高校1年まで在籍していて、結局「楽しい山行」というのはただの一度もなかったように思う。

大学にようよう入り、山登りを忘れ、タバコを吸うことや酒を呑むことを覚え、ひたすらに自堕落で運動の「う」の字もないような生活が続き
親には呆れられながら自然と留年していた自分は、サークル活動を引退してから就職活動まで1年間、放課の自由時間があることに気づいた。
ふと思い出したようにひとりで登る山は楽しく、普段酒を飲んでいて同じように留年をキメた友人を巻き込んで登る山は3倍楽しかった。

山登りというのは、楽しいのである。無性に。


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社会人になってもフラフラと山に行くことだけはやめられず、奇妙な縁もあって穂高には何度も通っている。
だからして、早朝の薄暗い松本駅でじっと登山客や学生を待つ松本電気鉄道(現アルピコ交通)上高地線の姿を見て感じるのは少し不思議な感覚だ。
その車両ををじっくりと見るでもなく、それがどんな出自で、どんなところを走っているかを想像することもなく、
ただドタバタと、しかし何度もお世話になる、地方の単線の2両編成の小さな電車。
もう一つの故郷といえば大げさになるけれど、それは何度も世話になった「手段」であって、その電車自体が「目的」になったことはなかった。


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半日かけて運転して大事な友だちに会いに行くことにして、駆け足ながら話して呑んで遊んで食べて、
(それはまさしく、いつでも会えるように錯覚していた友達を「目的」にリフレームする作業だった。)さて帰ろうと思ったときに、
じっくりと松本電気鉄道がどんなところを走っているのかを観察しようと心に決めた。

山道具を持たずに北アルプスの麓にいること、無目的なようでいて、それがかえって目的を決めるだけの時間や心の余裕を生んでいること。
とにかく、初めてオブジェクトとして上高地線を(場所や時間や帰る時間を気にせずに)眺める機会が来たんだなぁ、と思ったのだ。


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新島々の駅に佇むアルピコ交通3000形電車(都民ならわかると思うが、これはもともと京王線の車両である)の姿はとてもかわいい。
アルピコグループのCIを手がけたランドーアソシエイツは、大胆にもこの車両を真っ白に塗って、得も言われぬレインボーカラーをまとわせた。
リバイバルの旧塗装や萌えキャラが描かれた編成もいるけれど、もうそれも全部ひっくるめて、自分と電車が相対的でいることになんだか感動した。


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道路の横を、柵もなにもなしに、ただ草地に伸びる線路を踏んでガタンゴトンと走り去る2両の電車。
思えば、その姿をいつかゆっくりと眺めたいなあと思った中学1年の自分が、二十ウン年越しにそこに立っていた。


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「鉄道が好きだ!」という気持ちは、いつもどこかにあったけれど、
「じゃあそれを写真を撮るとか模型を走らせるといったアクションで発露できるじゃん!」と気づいたのは、つい最近のことである。

気づいてよかったし、これからもアルピコ交通上高地線にはお世話になると思う。
その先で頑張っている人や、その先に広がっている景色とワンセットで、改めて上高地線の姿をゆったりと眺められたこの秋のとある日は、とても特別な日だった。
好きなものを相対化して、手段から目的へとリフレームする。

自分が本当に見たかったもの、撮りたかったもの、話したかったことを自覚するために、自分と対話する。
それが歳を重ねて、思慮深くなって(視野が狭くなったら困るので新しい視座を求めることは意識的に続けながら)オトナになるってことなんだなぁ、と。

クッサいようではあるが、去りゆく上高地線に満足のいくレンズとカメラで対峙する時間というのは、
それほどまでにエモーショナルで、なんだかずっと見たかった景色をようやく見られたような、満たされた気持ちを呼び起こすものだった。




by kala-pattar | 2018-09-19 00:05 | 鉄分